エッセイ・心と体|埼玉県さいたま市大宮区 心療内科|心と体のクリニック

心と体のクリニック 大宮市

心と体・ストレス

 

心と体は相互に影響し合う──心療内科のコンセプト

どんな病気でも、心と体が互いに影響

私たちの心と体はいつも相互に影響し合っています。これは病気の場合にも当てはまります。心の病気とされているうつ病を例にとりましょう。うつ病になると食欲不振や便秘、頭痛など、さまざまな体の症状が出ます。
  体の病気とされている風邪ではどうでしょうか。これはウイルスが原因となる体の病気ですが、やる気が失せたり、イライラしたりしやすくなります。
   心と体が相互に影響し合うという関係は心療内科の病気においては特に顕著です。

心療内科は心身症を扱う科

一般的には、心療内科は「軽症の精神科のこと」だと理解されているようです。医師仲間でもそう理解している人が少なくないのが実情ですが、本当はちょっと違います。
  心療内科は本来は「体の病気ではあるが、心の影響を受けやすい病気(心身症)を扱う科」なのです。心身症の範囲は広く、例えば以下のような病気です。
気管支喘息、高血圧、心筋梗塞、狭心症、胃十二指腸潰瘍、過敏性腸症候群、糖尿病、甲状腺機能亢進症、更年期障害、関節リウマチ、頭痛、慢性疼痛、アトピー性皮膚炎、円形脱毛症、慢性蕁麻疹

心療内科は身体科を補完

この病気のリストを見た人は「心療内科だけでそんなに沢山の病気を診るのは無理では?」と疑問に思うでしょう。その通りです。ご存じのように医学の進歩は凄まじく、また高度に細分化、専門化されていて、心療内科だけではとうていカバーできません。
 しかしながら、医学の細分化や専門化には大きな弊害があります。それは人間を心と体を含めた生き物として把握するという視点が曖昧になりやすいということです。
  心療内科にはそうした欠点を補う役割があります。このため、内科や婦人科などの身体科の治療だけでは改善が不十分なケースや、体の症状があるのに検査をしても異常が見つからないケースを扱います。

心療内科はストレスを診る科

私たちは日常的にストレスに遭遇しています。精神的や物理的ストレスのために生じる症状は多彩です。身体症状としては不眠、食欲不振、腹部違和感、便通異常、疲労倦怠感、めまいといった体調不良があります。また精神症状としてはイライラや不安、緊張、焦燥感、抑うつ気分などがあります。
  現代社会においてストレスが無くなることはないでしょうし、ストレス自体は悪いものとは限りません。しかしストレスによってその人本来の生活や行動に支障を来しているなら、症状軽減やストレス対策が必要でしょう。心療内科はその役割を担っています。

心療内科でよく診る病気

では実際的には心療内科はどんな病気を診るのでしょうか。当科を受診する患者さんで多いのは次のような病気です。
自律神経失調症(身体表現性障害、身体症状性障害)
うつ病、うつ状態
過敏性腸症候群(IBS 下痢型、交代型、ガス型)、呑気症、自臭症
パニック障害、不安障害、空間恐怖
摂食障害(過食症、拒食症)
その他 :不眠症、頭痛、線維筋痛症、慢性疼痛、多汗症、頻尿など
ストレス関連 :適応障害、対人緊張(社会不安)、人間関係など

参考:精神科の病気について

なお以下の病気については、専門外のため、精神科受診を勧めています。
統合失調症、躁うつ病、アルコール依存症、てんかん、発達障害など

                                              

「緊張」でわかる心と体の関係

心療内科ではしばしば「心身相関」という言葉を使います。これは心と体はお互いに影響し合っているという意味なのですが、残念ながらそのメカニズムの解明が不十分なため、説得力に欠くのが実情でしょう。
しかし「心と体」がお互いに影響し合っている、と理解すると実際に役立つことがいくつもあるのです。
ここでは「緊張」を例に考えましょう。入学試験や入社試験の会場では誰でも緊張します。「果たして実力が出せるのか」「予想していない問題が出たらどうしょう」などと考えて、心に余裕がなくなり、思わぬミスが出たりします。また体はこわばり、口は渇き、体が熱くなったり逆に冷えたりします。
これでもわかるように一般的には心が緊張したときは体も緊張しますし、逆に体が緊張したときは心も緊張します。
これは一方が緩めば、もう一方も緩むことも意味するので、これを利用して緊張を軽くしましょう。
入学試験や入社試験の会場で「もっと落ち着いて」とか「リラックスしよう」といくら自分に言い聞かせても、なかなかうまくいきません。しかしそんな場面でも体を緩めることは可能でしょう。
緊張すると体全体に力が入り、肩が上がります。まずこれを緩めましょう。首から肩に注目するのがポイントです。自分なりの方法で構いません。
私も緊張しやすい方なの自分でもときどきやります。私の場合は「両肩が上がっている」と気づいたら緩めるように心がけるようにしたところ、今では「肩を緩めよう」としなくても「意識を両肩に向ける」だけで、肩が緩み、無駄な緊張を減らせるようになりました。
次に、首から肩の緊張が緩んだら、今度は深呼吸をしましょう。これも自己流で構いません。好みの問題かもしれませんが、私は大きく胸を膨らますやり方よりも、腹式呼吸の方が緊張が緩む印象を持っています。腹式呼吸にもいろんなやり方がありますが、慣れないうちは単純にお腹を膨らませたり凹ましたりするだけでも効果があります。
たったこれだけの「体」を緩める方法を実行するだけで「心」も緩みます。ただ本当に緊張している場面では、緩む程度はごく僅かかもしれません。それでも実際にやってみることで、少なくとも「心と体はお互いに影響し合っている」という点は実感できるのではないでしょうか。


「食欲不振」でわかる心と体の関係

うつ病(うつ状態)の患者さんの大半は「食欲がない」と訴えます。しかしその中身は二通りあります。一つは「お腹は空くが食欲がない」、もう一つは「お腹も空かないし食欲もない」です。
うつ状態になってさほど時間が経っていない人や軽症の人は、たいてい「お腹は空くのですけど、食べたいという気持にならないのです」という表現をします。ところが何カ月もうつ状態が続いたり、重症化すると「お腹も空かない」に変化します。
つまりうつ状態になっても、初期のうちは食べたものを消化する機能や「空腹かどうか」を判断する脳機能は正常なのです。つまり心(心理状態)が不調なため食欲不振になっているだけで、体の方はまだ深刻な事態ではないのです。それでも放っておくと「お腹も空かない」状態に変化する可能性があります。
このように特にストレスによって生じるうつ状態の場合、「心」の変調が「体」の変調よりも先に出現して、その後「心」につられるように「体」の変調も出現するというパターンがよく見られます。
こんなとき、速やかにうつ状態から脱するためにはどうすればいいのでしょうか。それは「お腹も空かないし食欲もない」という状態にならない前に食欲を回復させることです。
心と体はお互いに関係あるので、食欲が改善することでうつ状態も改善が期待できるのです。そこで私は体重が減っている人には、食欲改善作用のある胃腸薬や漢方薬を勧めたり、抗うつ剤を処方することになった場合は食欲改善が期待できそうな種類のものを優先して処方するようにしています。
もっとも、患者さんの中には「無理して食べている」と話す人がいますが、無理すると胃腸に負担がかかるので、無理してまで食べる必要があるかどうかは疑問です。


 

高齢者の転倒事故。原因は「骨」だけではない

高齢者がちょっとした段差で転倒して大ケガをした、といった話を聞きます。その原因として「高齢者は骨が脆くなっているからだ」とよく言われますが、骨以外の原因として脳があります。
もともと脳(大脳も小脳も)はサボる傾向(省エネ)があり、出くわす確率が少ないことは、「想定外」としがちです。昔の出来事やあまり使わない言葉を忘れるのも大脳がそれらを「想定外」にしてしまうためです。
体のバランスなどに関係する小脳も、大脳ほどではないですが、やはり省エネをします。若い頃さんざんやったスポーツでも、「カン」を取り戻すまでに時間が必要なのもそのせいです。
歩行についてもそれが当てはまります。平らな地面を歩くだけの毎日だと、脳は、それ以外の事態を「想定外」にしがちになります。
高齢者がちょっとした段差で転倒して大怪我するといった事故の原因は「骨が脆くなっているから」だけではありません。段差といった小さな変化を脳(小脳)が「想定外」にしてしまい、速やかな対処が取れなくて転ぶという場合も多いのです。
大怪我した人から「自分が転んで、このままでは床にぶつかると気づいても、とっさに手で庇うといった行為が取れず、顔を床にぶつけてしまった」といった話をよく聞きくのもそのせいです。
おそらくスポーツなどで転倒を日常的に経験している人なら、簡単に防ぐことができる事故でしょう。ただ、だからといって、歳を取ってからこうしたスポーツを始めるのも危険です。ではどうしたら良いでしょうか?
 誰でもできる方法があります。それは「一歩ごとに足運びが違う歩行」を日常的に実行することです。具体的には草むらや、山道などの非舗装の道を歩くことです。
変化に富む道を歩くことで生じる足運びや姿勢の変化を、脳が「よくあること(つまり想定内)」とするようになり、結果として体がよろめいても転倒しにくくなり、また転んでも怪我が最小限になる反応が可能になります。
つまり変化に富む道を歩くことで、転倒しそうになったときの対処法を脳が速やかに指示できるようになるのです。こんなところにも心(脳)と体には連携プレーがあるのです。


 

「感じ」で悩みを軽くする──フォーカシングと私の体験

お願い。この方法を試してみたいと考えた方に

以下で話すことは身体感覚を活用して「一人で悩みを軽くする」方法です。誰でも手軽に試せます。ただし習い事などと同じく「自分に合う、合わない」または「向き不向き」はあります。
合う合わないを検討する際に、一つの目印となるのが「論理(理屈)と感情」です。
 たとえば感情よりも理屈が優先というタイプの人は、コツを掴むのが難しい可能性があります。いったん考えるの止めて自分の意識を感覚に向けるのが苦手な場合が多いからです。
逆に、感情が優先というタイプの人は、この方法が感情をさらに刺激してしまう可能性があります。「感覚」は感情と繋がっています。感情の揺らぎは必ず感覚に影響を与えますが、逆に感覚が変化すると感情の揺らぎを生む可能性があるからです。
 この他、うつ状態や不安が強いとき、悩みが深刻なときなどでは、未経験者は避けた方がよいでしょう。
 このような問題が少ない、理屈も感情もホドホドの、普通の人なら、最初のサワリだけでも二、三回、試してみてください。そしてこれが悩みの改善や心の健康に繋がると感じたなら、日常生活に取り入れてください。もし合わないとか、却って悪くなると感じたなら、その時点で終わりにしてください。
当科に通院している患者さんなら、その人に合いそうかどうかを含めてアトバイスします。

「感じ」は悩みを軽くするツールとして使える

 はじめに私自身のことを書いておきます。私も悩むことがよくあります。しかし、悩んだ結果、問題が解決したことは少ないです。解決のメドがないから悩むのですから、当然そうなります。つまり、私も悩みを抱えながら日々を過ごしている、というのが現状です。ですから「悩んだときの解決法」は私も思いつきません。
ただ、悩んだときに「感じ(フェルトセンス)」を活用したら、悩みが軽くなった、という体験なら何度もあります。
  ちょっとした練習は必要ですが、誰でもそのやり方が習得できます。また、悩んだときだけでなく、何となく調子が悪いと感じたり、気分が落ち込んだりした際にも役立ちます。
 それだけではありません。悩みを軽くできると、結果的に悩みの解決に繋がることさえあります。それというのも、悩みに悩むという状態のときは、本人としては一生懸命、考えているのですが、実際は同じ考えが堂々巡りしているだけのことが多いものです。しかし悩みが軽くなると、この堂々巡り状態から抜け出し、違った角度から問題に取り組むことが可能になるからです。
なお身体感覚である「感じ(フェルトセンス)」を活用する方法は私のオリジナルではなく、フォーカシングという心理技法の一部として以前から使われているものです。フォーカシングが世に出たのはE・ジェンドリン(1926-2017)が「フォーカシング(1978)」を出版してからなので、もう半世紀近く経ったことになります。
 しかし未だに、一部のカウンセラーや教育関係者などが活用している程度に留まっています。なぜ、もっと広まらないのかについては、いくつかの要因があるでしょうが、その一つとしては「感じ(フェルトセンス)」は体験しない限り分からない、という事情がありそうです。この他に(標準的な)フォーカシングのやり方が、「とっつきにくい」という気持にさせてしまうのかもしれません。
「感じ」は実際に一度でも体験できると、後は簡単に分かるものです。またフォーカシングを知らなくても、「感じ」を活用するだけでも十分、毎日の生活に役立つと私は考えています。
ぜひ「感じ」を活用して、悩みに振り回されない毎日にしましょう。

「感じで悩みを軽くする」私の体験 その1

「感じ」がどんなものかを知ってもらうため、私の体験談を話します。ずいぶん昔のことですが、心療内科医としての研修の一環として、患者さんに対する面接のやり方の指導を受けた時期があります。その指導内容は、面接場面でどんなやり取りをしたのかに関する一部始終を指導医たちに報告し、改めるべき点などを指摘してもらうのというものでした。
 しかし、これが私にとって思いの外ストレスになりました。
 それというのも当初、面接指導の目的は、心療内科医として必要な面接の技術や知識を取得するため、と理解していたのですが、そうではなくて、私自身の患者さんに対する対応や態度の再検討だったからです。
これはスポーツに例えると、新しい技術の取得ではなく、自分の体に染みつき習慣化しているフォームのチェックや修正といえるものです。
指導医たちが、問題点として指摘した事柄は、私が患者さんの話をちゃんと聞かずに、自分の思い込みを元に見当違いの質問や返事をした点や、逆に私が踏み込んで尋ねるべきところを避けた点などでした。
 そうした問題点は、自分自身が気づくことがなかった自分の癖だったり、その場しのぎで済ませようとする自分の姿勢に由来するものだったので、指摘された内容はどれも「痛いところを突かれている」と感じるものでした。
 このため、なんとかその場は冷静さを保って指導時間を終えるのですが、帰宅後、夜寝る時刻になってもいつまでも指導医たちとのやり取りが頭を占め、何をやっても気持が落ち着かず、イライラして家族にやつ当たりすることさえありました。
 頭をよぎることは「あんなことを言わなければよかった」など、患者さんとのやり取りを悔いたり、指導医に対して「誤解された」といった不満だったり、「自分はこの仕事は向いていない」などの自己否定的な考えだったりでした。
 念のために書いておきますが、私は、今でもこうしたトレーニングが面接技術の向上だけでなく、自分自身の生き方の再検討のためにも役立ったと考えています。また当時もそのつもりで臨みました。しかし心が揺れたり落ち込みむことが増え、日々の診療や日常生活に影響するほどになりました。

「感じで悩みを軽くする」私の体験 その2

 そんなおり、ある医師仲間から「フォーカシングという心理技法の講習会があるので参加しないか」と誘われました。それれまで私はフォーカシングという言葉自体を知らなかったのですが、その医師から「フォーカシングというものは、体に生じる感覚に注目することで、自分の心理状態を理解する技法で、問題解決にも役立つらしい」という説明を受けたので、受講してみようと考えました。
 講習会は私の期待を裏切りませんでした。私よりも一回り若い講師の語りが「24時間フォーカシングに取り組んでいるのではないか」と思ってしまうほど情熱あふれたものだったこともあり、私は今すぐにでも試したいという気持になりました。
 ただ、この講習会の内容はフォーカシングのほんの「さわり」だけで、細かい技法にまでには話が及びませんでした。それでも私は本格的に教わる日が来るまで待てなかったので、自己流で次のことを試してみました。
 当時、私は通勤のため地下鉄に約20分間乗っていたのですが、帰宅途中の車中では、その日の出来事があれこれ頭をよぎることがよくありました。特に面接指導の後はとくにそれがいえ、指導医たちと交わしたやり取りなどが頭を占領してしまい、他のことが考えられないほどになることもよくありました。
 なんとか気を紛らせて考えないように努めるのですが、いつのまにかやり取りが再び頭を占領してしまう状態でした。そんなときは決まって、喉が詰まった感じがし、胸には重苦しいもやした感じがしっかり根を下ろしていました。
そこでこの「もやもや」に自分の意識を向けることにしました。「もやもや」を取り除こうと試みたり、否定するのではなく「この感じがここにあるんだな」と感じるままにしておく態度(気持ち)を維持するようにしました。
 しばらくの間「もやもや」に意識を向け続けていると、先程まで自分の意志ではコントロールできなかった「いろんな考えが頭を占領する状態」が緩和し、車外の風景をぼんやり眺めることも可能になりました。
 そして電車を降りるころには平常心を取り戻し、家に帰った後も、つくろいだ気分で家族と話せるようになったのです。
私がこれから話そうとしている「感じ」を活用する方法の中身は、要するにこのとき私がやったことがほぼ全てです。

 

「感じ」で悩みを軽くする──練習編

自分が考えているのに止められない!?

職場でイヤなことがあった。せっかく練習したのに本番で失敗してしまった。
 こんなとき、帰宅してのんびりしようと思っても、そのときの情景がよぎったり、怒りが収まらなかったり、自分を責めたりなどで、悶々とした体験はありませんか?
 そして「もうそんなことを考えるのを止めよう」と思っても、そのことが頭から離れず、いつまでも悩んでしまう状態、つまり堂々巡りの悩みに陥ったことはありませんか?
 これはとても不思議な現象ともいえます。なにしろ「考えているのは自分自身なのに、考えを止めようとしても自分では止められない」のですから。もっとも誰でも経験することなので、対処法もたくさん考えられています。
 たとえば、何らかの気晴らし行為をする、友達に話す、考えないようにする、などです。しかし不首尾に終わることも多いと思います。
今から述べることも堂々巡りの悩みの対処法の一つです。考えを止めようとしても自分では止められない際にどうするか、という方法です。
 この対処法のユニークなところは「悩んでいると、いつのまにか体にある種の違和感が現れる」という現象を活用して苦しみの軽減を図るという点です。
 悩んだ際に体に生じるこの違和感は、悩みを長引かせる要因になりますが、逆にこの違和感が軽くなれば悩みも軽くなる性質があります。ここで述べる対処法は悩みと違和感とのこうした関係を利用するものです。
 こうした心理的な意味を含まれている体の違和感には、フェルトセンス(感じられた感じ)という名前が付けられています。ただ、その呼び名はちょっと堅苦しいのでここでは単に「感じ」と呼ぶことにします。これから述べることはこの「感じ」を利用した、堂々巡りの悩みの軽減法です。
・ポイント  「感じ」とは心理的意味を含んだ体の違和感のこと
       「感じ」を活用することで、堂々巡りの悩みを軽減できる
       「感じ」はコツさえ掴めば、誰でも実感できる

「感じ」を感じる練習法

「感じ」は主に首や胸、お腹の辺りで感じられる、何らかの心理的意味を含んでいる身体感覚のことです。
 ただそう言われても何のことか分からないでしょう。それというのも大半の人は、「感じ」に注意を向けた体験を持ちません。それどころか普段の生活では、痛みや凝りなど、明確な症状として現れるとき以外は、体の感覚に注意を向けることはごく稀といえるでしょう。
 そこで、まずはいろんな体の感覚に触れてみましょう。その際に感じた感覚の一部が「感じ」です。 「感じ」が実感できさえすれば、それを活用するのは難しくありません。以下の順番で練習しましょう。
〔基礎練習〕
(1)(通常の)体の感じを確認する
 (2)好きな人、嫌いな人を思い浮かべたときに生じる「感じ」を感じてみる
〔実践練習〕
 (3)何かの事柄、出来事を思い浮かべたとき生じる「感じ」を感じてみる
 (4)たった今ある「感じ」を感じてみる
 (5)日々の生活に役立てる

〔基礎練習〕

(1)(通常の)体の感じを確認する

 これは準備体操のようなものです。ゆったり座った姿勢で、体にどんな感覚が感じられるのかを確認します。目は閉じた方がよいでしょう。それというのは私たちの日常生活は、目から情報を得て、それを元に頭で考えるという作業の繰り返しですが、目からの情報を遮断すると、視覚以外の情報を求めやすくなるからです。
目を閉じた状態で、意識を頭のてっぺんから徐々に足の方に向けます。そして「ここは締めつけられた感じがする」「つっぱっている」「ひんやりしている」「ちくちくする」というふうに体の感覚を確かめていきます。
 もし体全体というと、時間がかかり過ぎたり、範囲が広すぎて分かりにくいと思ってしまうようなら、掌(手のひら)や頭部(首から上)など、体のごく一部に限定しても構いません。
 この作業はこれから体験する「感じ」との比較のために行いますが、「感じ」を活用する際の一種の準備体操として、また肩凝りや過度な緊張の改善法としても役立ちます。


(2)好きな人、嫌いな人を思い浮かべたときに生じる「感じ」を感じてみる

(2)-1 好きな人を思い浮かべる
楽な姿勢で目を閉じます。好きな人を一人、思い浮かべてみます。誰でもかまいません。もし好きな人が思いつかないなら、好きなペットや物でもかまいません。それに関する印象的な出来事や言葉、表情などを数分~10分程度の時間をかけて、できるだけ詳細に思い浮かべてみましょう。
 それができたら、そのまま自分の注意を首や胸、お腹に向けてみましょう。すると思い浮かべる作業をする前には無かった違和感をその部分に感じるでしょう。
 それをじっくり味わいます。それは胸のキュンとする感じだったり、お腹の温かさだったり、何かに包まれているような感じだったりするかもしれません。いずれにしても言葉にはしにくいけれども、確かに感じることができる感覚です。
さきほど、頭から足先までの体の感覚を確認したときに感じたものは、皮膚や筋肉などに生じた物理的生理的な感覚や症状の場合が多かったでしょう。しかし、これはそれとは違う違和感です。これが「感じ(フェルトセンス)」です。

(2)-2 体に生じた「感じ」を言葉にしてみる。
 この「感じ」は言葉では言い表しにくい感覚でしょうが、あえて言葉にしてみましょう。できるだけこの「感じ」にぴったり合いそうな、言葉を探してみるのです。この作業は後ほど述べるフォーカシングを行うためには重要なのですが、ここではタグ(目印)探しぐらいのつもりでかまいません。タグを付けておくと「そうだ、あの感覚だったな」と思い出しやすくなるからです。
たとえはとりあえず、「胸キュン」「お腹の温かさ」「包まれる感覚」といった表現でかまいません。それができたらいったん終わりです。もう一度ゆっくり味わってから目を開けます。

(2)-3 嫌いな人を思い浮かべる
今度は嫌いな人を一人、思い浮かべてみます。誰でもかまいません。もし嫌いな人がとっさに思いつかないなら、嫌いな物や事柄でもかまいません。ただし、今はあくまで練習なので、嫌でたまらないといった人(事柄)よりは、もう少し嫌さが軽い、好感が持てない人(事柄)といった程度の方がよいでしょう。それというもの、嫌だという気持が強すぎると、その感情に圧倒されて肝心の「感じ」に気づきにくくなる可能性があるからです。
 それに関連する印象的な出来事や言葉、表情などを数分~10分程度の時間をかけて思い浮かべてみましょう。
 それができたら、そのまま自分の注意を首や胸、お腹に向けてみましょう。すると思い浮かべる前には無かった違和感がその部分に生まれているはずです。
 それをじっくり味わいます。それは喉の締めつけられる感じだったり、胸騒ぎとでもいえる感じだったり、お腹がムズムズする感じだったりするかもしれません。

(2)-4 体に生じた「感じ」を言葉にしてみる。
  好きな人での練習と同じように、嫌いな人を思い浮かべることで生まれた感覚を言葉にしてみましょう。その後は、好きな人でやったのと同じやり方で終えてください。

(2)-5 好きな人と嫌いな人とでは思い浮かべたときの感覚が違うことを確認する
嫌いな人(事柄)で生じたい感覚と、好きな人(事柄)で生じた感覚とでは違いがありますね。このように思い浮かべる対象が異なると「感じ」も違ってくるということを、交互に思い浮かべて確認してください。
 二つの「感じ」の違いが十分、分からなかった人は、別の組み合わせで試してみましょう。たとえば、嬉しかったことと、腹が立ったこととの組み合わせ、あるいはラッキーと感じたことと、がっかりしたこととの組み合わせなどです。
 これで基礎練習は終わりです。好きな人と嫌いな人を思い浮かべたとき、それぞれ異なる体の違和感が感じられるようになりさえすれば、「感じ」を活用した堂々巡りの悩みの軽減法は、ほとんど習得できたといってもよいほどです。この後は実際の場面に沿った練習に移りましょう。


「感じ」で悩みを軽くする──実践編

実践練習

ここからは実践練習です。最近、気になったことを一つ思い浮かべてください。
やり方は先程の好きな人でやったのと同じです。好きな人、嫌いな人で生まれた感覚とはまた違った、違和感を感じるでしょう。
 そして、この違和感(「感じ」)とぴったりする表現や言葉を探しましょう。やり方としては、まず近いと思う言葉を探します。たいていの場合、最初に思いついた言葉は「近いけどちょっと違う」という気持になることが多いのですが「ではそれよりもう少しぴったりする言葉は~」という風にさらにぴったりするものを探します。
何度か繰り返すと「これがぴったりだな」と感じる表現が見つかることがあります。ただし、始めのころは「だいぶ近くなったけど、まだちょっと違う」という辺りまでで十分です。
ぴったりの言葉が見つかるとそれだけで「感じ」が変化することもよくあります。ただ今回はあくまで練習なので言葉が見つからなくても、また「感じ」が変化しなくても気にしないでください。数分~10分経ったら終わりにしましょう。
 ちなみに先程も述べましたが、私自身がこのやり方を始めたばかりの頃は「感じ」に合う表現や言葉を探すことはせず、ただ「ここに、こんな感覚があるんだな」という態度で「感じ」に触れ続けることに専念したのですが、それだけの作業でも十分に気がかりの程度が減りました。
ただし後で述べますが、表現や言葉を探すことで、この手法をさらに発展させることができます。

(4)たった今ある「感じ」を感じてみる
 これまで行った練習は、あることを思い浮かべて、それに伴って浮かび上がる「感じ」を感じる作業でしたね。今度はその逆をやってみましょう。
喉や胸、お腹の辺りに意識を向けます。そしてたった今、違和感を感じる部分を探します。「自分をすっきりさせてくれない感覚」や「注意を向けて貰いたがっている感覚」を探す、という態度で臨んでください。
 違和感を感じたものが複数あるなら、その一つを選びます。このどれもが「感じ」とは言えないかもしれません。そうはいっても初めのうちはどれが「感じ」なのか分らないと思います。とりあえずは頭痛や肩凝りなど、症状と呼べそうなものや、明らかに物理的生理的な原因と思われる違和感は避けましょう。
それを避ける理由を簡単に述べておきます。私自身は練習の一環として、頭痛や肩凝りなどをあえて選び、しばらくの間、その感覚を感じてみたことがあります。そのときの感想ですが、ズキズキ頭痛の場合、その感覚を感じ続けるとかえって頭痛がひどくなることが多かったです。緊張タイプの頭痛や肩凝りの場合は、その感覚を感じ続けても、その強さや性状はあまり変化しませんでした。
このようにこうした感覚を味わい続けても、変化しなかったり苦痛がひどくなったりすることがあります。また心理的意味が見出せないことも多いため、初心者にはお勧めしません。

(5)日々の生活に役立てる
 ここまでやれたなら、あとは日々の生活において実際に使って、身に付いたものにしてみてください。
くよくよ悩んだときだけでなく、何かすっきりしない気分になったとき、自分のコンデション確認のためなど、何でも構いません。そんなときに、首や胸、お腹の辺りに注意を向けてみます。そしてそのとき見つかった「感じ」をしばらく感じ続けてみるのです。悩みに巻き込まれている状態が改善したり、すっきりしない気分の理由が分かったりします。


「感じ」を実感できない人のために

先ほど述べたような練習をしても「感じ」を実感できない人もいます。私がこれまで指導した人の中にも、いろんな方法を試しても不可能だった例があります。
実感できない人はいくつかのタイプに分けられます。タイプ別に述べてみます。

タイプ1 たんにコツがつかめていないだけ

だいたいの人はこのタイプ。要するに「コツ」が掴めていないだけです。たとえば木を見ようとしたとき、ほぼ全ての人は木の幹や枝葉に意識が向き、葉と葉の間の空間や、木によってできた影の存在には気づきません。しかしこうした部分に注目しようと思い付くだけで、簡単に見えるようになりますね。つまり注意するポイントを変えさえすればいいのです。
 どうしたらよいかの話をする前に、ある女性(42歳)の例を挙げましょう。この方は基礎練習の課題「好きな人(もの)」として、故郷の海岸を選びました。
〔自分が岸辺に立っている姿が浮びます。海からの風が気持いいです。肩の力が抜けて息が楽になりました。いつまでもこのままでいたいという気分です。〕
 Aさんはイメージ力が豊かな人のようです。このこと自体はすばらしいと思いますが、視覚イメージは想像と同じく自由度が高いぶん、身体感覚と解離しやすいという欠点があります。
あくまでここでは身体感覚に注意を向けましょう。ではどこに向ければよいでしょうか? 選択肢はいくつかあります。
たとえば〔海からの風が気持いいです。〕の部分なら「気持がいい」状態に注意を向け、そうすることによって生じる喉や胸、お腹の辺りの感覚を見つけるのです。また〔肩の力が抜けて息が楽〕や〔いつまでもこのままでいたいという気分〕に注意を向けて同様の作業をしても構いません。
このように好き嫌いのある人(もの)をイメージすると、そのことにより(微かであっても)感情が変化します。また感情や気分にはほぼ必ずといってよいほど「感じ」と繋がっています。したがって、これに伴い新たな「感じ」が生れるので、後はそれに気づけばよいのです。これが「感じ」というものなんだ、といったん分かってしまえば、あとは簡単なのです。

コツがつかめていない人向けの練習法

以下は微細な身体感覚に気づく練習です。基礎練習で「感じ」がうまく掴めなかった人は、次のどれかを試してみてください。自己流で構いません。
練習1:喉に注目
 ストレスが多い毎日が続くと、いつのまにか喉が詰まっていると感じる人が多いようです。私の場合、普段の日でも喉に注目すると、喉ぼとけのあたりが窮屈だと感じたり、息を吸うと喉ぼとけの下の部分で空気が通りにくいと感じます。
 個人差はありますが、喉の部分は特別ストレスがなくても、違和感を感じやすい場所です。また今は感じられなくても、機会に触れてこの部分に注目していると「今は違和感がある」と分かるときがあるでしょう。
  これが「感じ」なのか、それとも(通常の物理的生理的な変化に伴う)身体感覚なのか、といった区別にはこだわる必要はありません。それが自分にとって気になる違和感なら「感じ」として扱って構いません。
練習2:胸の呼吸に注目
 呼吸に伴う胸の感覚変化に注目しましょう。息を吸い肺が膨らんだとき、周りの組織はそれに押されることで、感覚が変化します。またすうすることで、呼吸とは同期しない感覚も感じやすくなります。
違和感は複数見つかるかもしれませんが、気になった感覚を「感じ」として取り上げればいいのです。ただし呼吸に伴う規則的で物理的と思われる感覚は、心理的な意味合いが少ないので、積極的に選ぶことはしない方がよいでしょう。
練習3:お腹の動きに注目
 お腹に注目してみましょう。呼吸に伴ってベルトの部分が締めつけられたり緩んだりするのが感じられるでしょう。胃の辺りの重感や腸がグルグル動くのが分かるかもしれません。お腹は常にといってもよいほど毎回、違った感覚が出現する場です。
 これに加え、脳腸相関という言葉があるぐらい、腸は緊張や興奮、抑うつといった精神状態を反映するので、なおさらです。
 全ての感覚が「感じ」とは限りませんが、お腹の感覚の変化を観察してみるだけでも身体感覚を捉えやすくなります。

タイプ2 感情に翻弄されて「感じ」を感じられない

二番目に多いのはこのタイプです。女性によくあるのですが、たとえば好きな人、嫌いな人の実習を行うと、好きな気持ちや嫌悪する感情で動揺してしまう人がいます。ある26歳女性の例を挙げましょう。この方は基礎練習の「嫌いな人」として、理不尽な形で別れた彼氏を挙げました。
〔思い出すだけで、怒りがこみ上げてきます。体、とくに顔が熱っぽくなっています。あと動悸ですね。なにしろあのときから人を信じることができなくなったのですから。〕
 体や顔の熱感や動悸も、「感じ」と呼んだ方がよいときもありますが、この場合は感情のため生じた生理的現象という要素が強そうです。
 感情的になっている状態でも「感じ」はちゃんと存在します。ちょっと冷静になると、感情とはまた別に「感じ」があるのが分かるはずですが、感情に振り回されてしまっている状態では「感じ」を把握しにくくなります。
 もし練習として行うなら、好き嫌いの程度が弱い人(事柄)や、ちょっと嬉しかったこと、がっかりしたことなど、思い浮かべる対象が強い感情を伴わないものに代えて試してみてください 。
感情豊かな人は、概ね感覚も豊かな人です。ですから慣れさえすれば「感じ」を捉えたり、表現することにも優れている人になれるでしょう。

タイプ3 過剰適応や緊張のため集中できない

治療者やガイド役に「感じ」を誘導して貰うという状況自体が、むしろ自分の体の内側に注意を集中しにくくさせ、結果的に「感じ」から遠ざかってしまうことになる人がいます。
 このタイプの人は二つに分かれます。一つ目は過剰適応あるいは気が付き過ぎる人です。この人たちは、たった今、目の前にいる治療者(ガイド役)が、どんな気持でいるのかが気になったり、治療者が望む成果を出さなければなどと焦り、注意を自分の体に向けることが困難になってしまうのです。
 二つ目は対人緊張の人です。人前で話すという状況のために緊張し、自分の心臓の鼓動や声の震えなどが気になったり、どう対応したらよいかにとまどったりして、注意を自分の体に向けるという肝心の作業に集中できないのです。
 この人たちも何回か一緒にやると、慣れて「感じ」を体感することができるのですか「また同じ体験をしてしまうのでは」と一回で止めてしまう人もいます。
 こうした場合、誘導してもらうのではなく、やり方だけを教わり、実際は後日一人でやるという方法もあります。以前も書きましたが、私自身もやり方だけ教わり、自分でもやれるよになった後で、「感じ」を発展させた技法であるフォーカシングを正式に教わっています。

タイプ4 完璧を求めすぎて「感じ」を実感できない

言われたことをきちんと守ろうとし過ぎるタイプ。もともと「感じ」は漠とした曖昧なもので、言葉にしにくいものです。また「感じ」は、体のどこからどこまで、といった範囲もはっきりしません。ですから、きちんと表現したり、きちんと捉えようとすること自体に無理があります。このため、完璧を求める傾向が強いと、「感じ」を実感できていても「これが『感じ』だ」と納得できないのです。
 そんな人の場合、逆にその几帳面さを利用して、最初から「喉や胸、お腹の部分に、雲や綿菓子のような形や性質がはっきりしない、もやもやした感じがあるはずなので、そう感じる部分を探そう」という態度で臨む方がよいかもしれません。

タイプ5 もともと感じにくい

タイプ4に近いのですが、もともと体の感じを知覚しにくい人もいます。このタイプは男性に多く、理屈っぽい人、こだわる傾向の人、いつも何かをしていないと落ち着かない人などにしばしば見られます。
ある52歳男性の例を挙げましょう。この方は基礎練習の「好きなもの」として、ジョギングを挙げました。
〔ジョギングは好きですね。仕事でいろいろ考えた後で走るとスッキリするので。あと体は~、そうですね。あまりやると息が切れてくるし、動悸もひどくなって耳元まで聞こえますよ。汗もびっしょりになる。え? その時の話ではなく今の状態ですか? 今はこうして座っているので、何も感じませんね。〕
 この方の場合、体の状態の描写はできても、今の「感じ」に触れることが困難でした。その後、結局4回一緒に練習したのですが、本人の希望で終了(中止)にしました。おそらくこれ以上やっても進展がないと判断したのだと思われます。
 おそらくこの方は、後ほど触れますが、失体感症やA型行動パターンといわれる傾向があるようです。こうした人たちへの対処法(治療法)はまだ未開拓の分野だといえる状態です。しかしフォーカシングのエッセンスである「感じ」を活用することで改善が期待ができると私は考えています。
 こういう人の場合、先ずは自分の意志で作り出せる身体感覚の体験から始めるとよいでしょう。身体感覚に繊細になるにつれて「感じ」も体験できるようになれると私は考えています。
 そのための独習として、たとえば手指を動かしたとき、それに伴って変化する身体感覚の範囲や程度を観察するという方法があります。指を動かすことによって、指の周りだけではなく、肘あたりまで、あるいは人によっては肩近くまでの筋肉や腱が動くのを感じることができます。
 この感覚は大きく動かすとはっきりし、微細な動きにすると分かりにくくなるので、指の動きや速さを変えながら練習すると、かなり微細な動きまで察知できるようになります。

参考:失体感症、A型行動パターン

「感じ」を捉えるのが困難な例として、失体感症があります。
 失体感症は心療内科のパイオニアである池見酉次郎先生が提唱した概念です。失体感症の人たちは温冷感や痛覚、触覚などの他、疲労感や眠気なども自覚しにくく、また本来あるはずのこうした感覚に対して、言葉で表現したり適切な反応を取りにくい、とされています。
  ただしまだ定義がはっきりしない概念のため、その程度には差があり、ほぼ健康な毎日をすごしている人から生活に支障を来している人までいるようです。
 この他、感じにくい人の例として、A型行動パターンといわれる性格特徴があります。
この人達は野心的で精力的、仕事熱心、せっかちといった性格傾向があり、心筋梗塞や狭心症になりやすい(リスクファクター)とされています。いつも意識が外的なことに向かうため、身体感覚に気づきにくいのでしょう。
こうした人の場合、身体感覚に注意を向けるという習慣を身に付けるだけでも、病気になる確率を減らせる可能性がありそうです。


「感じ」をどう活用するか──フォーカシングという心理技法

先程も話しましたが「感じ(フェルトセンス)」を利用する方法は私のオリジナルではなく、フォーカシングという心理技法の一部です。
 そこで、フォーカシングの詳細な紹介は後回しにして、ここでは代表的なフォーカシング実践的研究者が「感じ」をどう利用しているのかに絞って簡単に説明しておきます。
・ジェンドリン
 フォーカシングを開発したE.T.ジェンドリンは、「感じ」自身が一つの意味や意志を持つ存在であるかのように「感じ」を扱い、セッションを進めます。私も「感じ」に意味や意志があるとする見方には賛成ですが、これを実際に毎回、実感できるとも思っていません。
 それでも、フォーカシングを何度も体験したり、また経験豊かなガイド役(治療者)の助けがあれば、今、体に生じている「感じ」にどんな意味があり、「感じ」がどうしたがっているのかを理解したり実感できることが多くなります。
 私自身がフォーカシングのセッションを受けた経験でいえば、「感じ」があるという体験はぼ毎回、味わえましたが、「感じ」の意味やその意図については、全く分からないままセッションを終了することも少なくありませんでした。
 このため、とくに初心者や、ガイド役なしで一人でやる場合、「感じ」の意味や意図を毎回知ることができるといった期待はしない方がよいと考えます。
・コーネル
 こうした点を配慮したのか、ジェンドリンの直弟子ともいえるA.W.コーネルは、フォーカシングのセッションにおいて「感じ」の意味や意図を直接的に知ろうとはせず、代わりに「感じ」に対して、悩んでいる友達の横に座っているような気持で接することを提唱しています。
  これに加えて、「感じ」対して温かく見守るようなスタンスを維持すること、そして「感じ」に巻き込まれない程度の距離を取ることも大事なポイントだとしています。
このスタンスはカウンセリングの代表的な技法でもある支持的精神療法において、カウンセラーが患者(依頼者)に対して取る態度に似ています。
私もこうしたものが自分一人で「感じ」を味わう場合においても取るべき態度の原則だと考えています。
 ただし「悩んでいる友達の横に座っている」ようなスタンスがいつも取れるとは限りません。それというのも、「感じ」がいつも心地良いものであるとは限らず、「取り除きたい」とか「早く無くなってほしい」といった気持になる不快な違和感であることもよくありますし、特に悩みや心配が深刻なときには、「感じ」に触れること自体に苦痛を感じることも多いからです。
 そんなときには私がやったように「ここにこんな感じがあるんだな」と感じ続けるだけにした方がよいでしょう。もっとも悩みや心配事が頭を占領している状態で体験してもらえば分かると思いますが、考えが頭を占領している状態よりは、たとえ不快な違和感であっても、「感じ」に触れ続けている状態でいる方が「まだ楽」だと実感できることもよくあります。


堂々巡りの悩み。認知行動療法ならどうする?

「感じ」を感じたからといって、それにどんな意味があるのだろう、と疑問に持つ人もいると思います。そこで、代表的なカウンセリングの技法である認知行動療法と比較しながら検討してみましょう。
もともと認知療法はうつ病に対し、認知の歪み(不合理な見方や考え方)を修正する技法としてスタートしました。その後、言葉でのやり取りだけでなく、行動修正を併用すると効果的であるとされ、認知行動療法として発展し、またうつ病以外の病気に対しても適用されるようになりました。
 認知行動療法では堂々巡りの考えに対し、反芻思考(ぐるぐる思考)という名前が付けられています。ただしこの反芻思考への定まった対処法があるわけではないようで、ネットで「認知療法、反芻思考、対処法(治療法)」などと検索すると、以下のような対処法が見つかりました。

言葉にしてみる。スマホや紙に書く
「これは反芻思考だ」「ストップ」「ポジティブに」などと唱える
歌を歌うなどで気をそらす
体を動かしたり散歩する
自分の体に触れる
反芻思考の原因を避ける
 これらの方法をざっくりまとめると、まずは堂々巡りの考え(反芻思考)だと認識し(気づき)、合理的思考を働かせ、言葉にしたり体を動かすなどの行動でその阻止を試みるようです。私はこうした方法を否定するつもりはなく、自分に合うと思うなら積極的に活用すべきだと考えます。

「感じ」の意義──人は「気にかかる」ので悩む

では具体例で検討してみましょう。たとえば、クラスメイトから厭味を言われた。仕事でミスをした。子供の将来が心配、などがきっかけで堂々巡りの悩みに陥っているケースです。
 そうした問題で悩んでいる人を目にすると、つい「そんなこと、大したことじゃあない」「それは済んでしまった過去の出来事。しかたがないことさ」「不確かなことを延々と考えるのは時間の無駄だよ」などと、慰めたり励ましたりしがちです。
 また認知療法なら、認知の歪みなど、合理的とはいえない思考パターンを指摘するかもしれません。
 確かにその通りでしょう。しかし、それらの励ましや指摘が正しいと本人が自覚しても、やはり悩み続けるものです。
 ではなぜ悩み続けるのでしょうか? それはその悩み事に対して「気にかかる」感じが消えないからです。つまり「気がかり」が変わらない限り、つい悩んでしまうのです。
 認知行動療法は、行動によって「気がかり」から別のことに注意を向けることで、反芻思考を止めることを狙います。つまり、このやり方は「気がかり」自身には焦点を向けません。
 気がかりとなった事柄は、重要ではなかったり、単なる杞憂だったり、認知の歪みだったり、かもしれません。しかし、そのときの当人にとっては、重要な懸案事項なので、気にかかるのです。
 なので、できれば気がかりの対処法としては、別のことに注意を向けることで消し去るのではなく、気がかり自身が発展解消へと向かうのが望ましいはずです。ここで述べている「感じ」を活用する方法は、そうしたことを狙います。


  

日常診療で見かける「感じ」

「感じ」という概念を知らない人が、知らず知らず「感じ」を語っているということは珍しくありません。以下は普段の診療場面で見かけた発言です。
・32歳男性。上司の嫌がらせについて話しながら
「思い出すだけで、胸に陶器のざらざらした破片を擦りつけられるような感じがするんです」
・35歳女性。過敏性腸症候群の症状を説明するなかで
「お腹の辺りは、何とも言えない熱いような、なんか爆発寸前のような感じですね」
・42歳女性。自分がノーと言えない性格だと語るなかで
「私は人からワーと言われると、たいていその後、胸に何かが残ってしまうのです」
・24歳女性 会社がある朝は決まってお腹の調子が悪いと話しながら
「朝起きて、今から仕事かなと思うだけで、みぞおちの部分がドヨーンとなってしまいます」

  またこれとは反対に、体の感覚を確認するうちに、過去の出来事が蘇ると語る人もいます。
・38歳女性
この女性はうつ状態が改善したころから、一日に何回か、数分程度のある種の発作に苦しむようになり「さっきも待合室でそうなった」と語り、その性状は「胸のあたりが痛いような、悲しいような、言葉でうまく表現できない」とのこと。
そこで私が「そのとき、何らかの情景が浮かびますか?」と尋ねたら彼女は「故郷の家のことが浮かぶ」と答え、次のような話をしてくれました。
 それは彼女が小学生のころは、父親が単身赴任のため母子の二人暮らしだったが、いつの間にか知らない男性が家で暮すようになった。この結果、食事は母親とその男性が一緒に食べ、彼女は別の部屋で食べるようになり、その場面がなぜか頭に浮ぶ、と。
 これは実践練習の(4)たった今ある「感じ」を感じてみる、での実習を、彼女が意図せず行ったといえるでしょう。


「感じ」と症状はシームレス。区別しにくいことがある

ところで症状と「感じ」は全く別個のものなのでしょうか? どうもそうとも言えないのです。たとえば以下のような例です。
・25歳男性
 商談先の偉い人たちと会食する予定の日は、朝の時点で喉が締めつけられている感じが強くなって、これじゃあ食べられそうもないな、と思ってしまうのです。
・18歳女性
 お父さんは一方的に私に命令するだけ。本当は言いたいことがあっても、お父さんの前に出るだけで、喉に無理やり何かを詰め込まれた感じになって、何も言えないのです。
 これらの症状に対しては「咽頭違和感症」という病名が付けられることがあります。私も同じような症状が出ることがあります。先日も自分が不用意な失言をしてしまった、と悔やんでいたとき、喉が詰まった感じになりました。
私の場合、これは「感じ」として捉えて、「こんな感じがあるな~」という態度でそのままにしていたら、喉の詰まりが徐々に軽くなりました。
 もちろんこうした、症状なのか感じなのかがはっきりしない例は、喉だけではなく胸やお腹など他の部位でも見かけます。
 次の話は循環器を含めいろんな病院で検査するも異常なしと言われ、当クリニックを受診した56歳男性の例で、当科での診断名は不安障害です。
〔とにかく胸の辺りがたまらなく苦しい。何か重いものが心臓にへばりついているみたい〕
 これは症状ですが、「感じ」と言えるかもしれません。残念ながら本人の苦しみが強いため、「感じ」の可能性を探るよりは症状軽減の治療を優先したため、確認できていません。
 ちなみに心臓病など器質的疾患(臓器に異常がある病気)では無さそうだと判断したのは、眠っている間は症状が無く、また人と会ったり興味あるテレビを見たりしているときなど、注意関心が自分の体以外に注がれている間は症状が気にならなくなる傾向が見られたからです。


なぜ、いつまでも悩むのか? 改善法は?


                なぜ、いつまでも悩むのか 〔表1〕
              ①悩みの種となる状況が変化しない
              ②状況を変えるための行動が取れない
              ③「考え方を変える」ができない
              ④「考えない」ができない
              ⑤「考えても気にならない」ができない

「長引く悩み」は二重の苦しみ──「悩み」と「悩むことで生まれる悩み」

私の外来には、悩んだところで解決しそうもないのに、いつまでも悩んでしまうという「悩み」で受診する人が珍しくありません。よく見かけるのは家族や友達、職場での人間関係で、これに加えて最近では収入や生活費など、お金にまつわる悩みです。
この人たちは悩みが解決できると思って、受診するわけではありません。受診したぐらいでは悩みが無くならないのは分かっているが、悩みのせいで心身に不調をきたしたり、日常生活に悪影響を及ぼしている現状をなんとかしたくて受診するのです。
 たとえば先日、受診した四十歳の男性は次のような話をしていました。
「上司は気まぐれで、機嫌が悪いと言いがかりに近い理由で私を罵倒する。いっそのこと辞めてしまいたいが後々の生活を考えるとそれもできない。家に帰って気晴らしにと思ってテレビでサッカーを観戦をしても会社のことが頭をよぎり、試合に集中できない。食事もおいしくないし、夜も眠れない。また気持ちにゆとりがないせいか、つい妻にも当たってしまうのです」
 この男性の場合、職場での問題が悩みの種となり、悩むことが体調不良や家庭不和の原因にもなっています。悩みが無くなるのが一番でしょうが、それが不可能なとき、せめていつまでも悩まないで済む方法はないだろうか、というのが今回のテーマです。
 まず、なぜいつまでも悩むかというと、〔表1〕にあげたような理由が考えられます。以後、この表の順番に沿って述べます。


①悩みの種となる状況が改善しない

②状況を変えるための行動が取れない

当然ながら、状況が変化して悩みの原因が無くなるのが一番です。しかしそうならないので悩みが続くのです。もちろんその場合でも、自分から状況が変わるように行動するという方法はあります。たとえば「上司はきまぐれで、機嫌が悪いと言いがかりに近い理由をつけて私を罵倒する」場合なら、上司に罵倒の根拠を問い正す。パワハラだとしてコンプライアンス担当者や産業医に相談する。異動願いを出す・・・などでしょう。
しかし、こうした正攻法ともいえる方法が実行できればいいのですが、それができないので悩みが続いてしまうのです。では次善の策として、どんな方法があるのでしょうか?

③-1「考え方を変える」ができない

ネットなどでよく見かける悩み軽減法として「考え方を変える」方法があります。その代表的なものは、物事を肯定的に捉えようとする「ポジティブ思考」でしょう。ポジティブ思考は「現実から目をそらす」「自分の感情を尊重しない」「自分を追い込む」などの欠点も指摘されているようですが、基本的には決して排除すべき思考法ではなく、私自身もポジティブ思考で毎日生活できるようになりたいとは思います。
また「問題を箇条書きにしてみる」などの方法で、悩みを整理したり客観的に見直すことを促すアドバイスもよく見かけます。これも広い意味で「考え方を変える」方法といえるでしょう。
 カウンセリングの分野では認知療法が「考え方を変える」方法として代表的なものといえます。これは認知の歪み(偏った思い込み)を修正する方法で、実際に「考え方を変えることができた」と話してくれた人もいます。

③-2「考え方を変える」ができない理由──「人は理屈で生きているわけではない」

いま紹介した「考え方を変える」方法はどれも試す価値はあるでしょうし、悩みが軽くなる人もいるとは思います。理性的に考えれば、ネガティブ思考よりもポジティブ思考の方が望ましいでしょうし、また問題を客観的に捉えたり、自分の偏った思考を合理的に再検討した方がよいはずです。
 しかし悩みが続くのは、それができないからなのです。それというもの「人は理屈(理性)だけで生きているわけではない」からです。仕事や勉強などで主体的、理性的に考えている場合と異なり、悩んでいるときは気にかかる事柄で頭が一杯になり、果して自分が考えようと意図して考えているのか、それとも自分では望まないのに考えさせられているのかさえ分らない状態になります。また気持は落ち込み、ため息が出ます。さらに胸には重苦しいものがのしかかり、食欲も減退します。
 なぜそうなってまで悩み続けるのでしょうか? これを説明する決定的な理論はまだありませんが、少しずつ解明され始めています。たとえば人が行動したり決断を下すときのメカニズムについて、次のような仮説があります。少し話が脇道に逸れますがここで述べておきます。

③-3「考え方を変える」ができない理由──「ソマティック・マーカー仮説」

「ランチする店をどこにするか」などの簡単なことから、就職先やパートナー選びまで、私たちはどうやって選び決めているのでしょうか。いろんな説がありますが、ここでは脳科学者A・ダマシオのソマティック・マーカー仮説を紹介しましょう。
私たちは常に「さて、次はどうするか」を選ぶ生活を送っています。その選定は、頭脳によって合理的、理性的に処理されていると想像している人が多いかもしれませんが、ダマシオはそう考えません。合理的で理性的な思考による選択だけでは、決定までに時間がかかり過ぎることなるとし、次のような説を提唱をします。
〔実生活において比較的、短時間に意志決定ができるのは「何かを頭に浮かべると、身体が勝手に反応するから」だ。たとえば特定の何かを頭に思い浮かべると「不快な」感情が生じ、その選択を止め、次の作業へ移る。これが連続的に行われるので、あっという間に二三のオプションに絞り込まれる。この段階に達してはじめて合理的思考が働く。
 ではなぜこのようなことが起きるかというと、過去にわれわれがオプションXを選択し、悪い結果Yが出て、不快な身体症状が引き起こされたとすると、その経験が、前頭前皮質に記憶され、後日オプションXに再度身をさらすと悪い結果Yの不快な身体症状が引き起こされる・・・。〕
 これがソマテック・マーカー仮説です。なんだかややこしい話だなと思った人もいるでしょうが、要するに日常的なことでも重要なことでも、その決定は理詰めの作業ではない。過去に類似の体験をしたときの感情や身体反応(症状)が蘇り、それを活用することで瞬時に選択肢が二三に絞り込まれる。そして、理性が機能するのはその段階になってからだ、と主張しているのです。
 私がわざわざ寄り道してダマシオの仮説を紹介したのは、悩みが続いた場合によく当てはまるからです。
 悩んだときには、必ずといってよいほど不快な身体反応(身体感覚)を伴います。悩み、何らかの選択を迷ったとき、過去のさまざまな不快な体験とリンクし、そのとき不快な身体反応が伴うのは、当然だということになるでしょう。

④-1「考えない」ができない

悩まなければ、悩みがなくなったのと、実質は同じという発想をすれば、「考えない」という方法もあります。くよくよ悩んでもしかたがないと思い、友人に相談したところ「気にしない方がいいよ。考えないことだ」と言われた体験を持つ人も多いと思います。確かに、考えてもしかたがないことは「考えない」というアドバイスは、一応理に叶っています。
 実際、長期にわたって悩んでいる患者さんのなかには、「そのことは考えないようにしています」などと語る人を見かけます。傾向としては中年以降の人が多く、女性なら嫁姑や夫、男性なら上司や妻との関係で生じる悩みに話題が及んだとき耳にします。おそらく長い間、さんざん悩み、解決法を模索してみたがよい知恵も浮かばず、結局は目をつむるしかないと、諦めの心境も加わって「考えない」ようにして毎日を乗り越えているのでしょう。
 ただ「考えない」を日常的に実践するのは至難の技だと私は思っています。私は高校生のころ、思春期にはありがちの悩みを抱えていました。その悩み自体は些細なものでしたが、そのための被害は決して小さくなかったのです。たとえば悩むのは止めて勉強しようと心に決めても、悩みが頭をよぎって参考書に集中できず、その結果、今度は成績低下について悩むという悪循環に陥りました。
 当時私が不思議だったのは、悩むことは自分の意志で自主的に行う作業なのに、いったん悩み始めると自分では止められないのはなぜなのか、という疑問でした。
 これに関してその後、自分なりに考えたことを述べてみます。厳密な調査というわけではないのであくまで参考ですが、以前、医学部の学生と、主婦などの中年女性、それぞれ数十人を対象に「考えない状態を二分間続ける」という課題をやってもらったことがあります。その結果、成功した人はいずれのグループとも二割以下でした。
 これが一般的な傾向だとすれば、人は頭を空っぽにして何も考えない状態よりは、何かを考えている方が自然で無理がない状態だということになりそうです。実際、坐禅や瞑想を体験した人なら分かると思いますが、頭を空っぽにしようとしても、たちまち考えやイメージが頭をよぎってしまうものなのです。とくに悩みごとがあるとそのことが頭をよぎり、いつの間にか考えてしまっている自分に気づくのです。悩みが長引くのはこうした脳の特性も一つの原因だ、と私は考えています。

④-2「考えない」ことでは悩みは解消しない

以前、私は「考えない」方法を身に付けようと試みたことがあります。それは堂々巡りの悩みから解放されたいと願う気持からですが、もう一つはもし自分の意志だけで自在に「考えない」状態を作れるなら、自分のものの見方や考え方を修正できるのでは、という期待もあったからです。
 このことを一応説明しておくと、勝手に頭に浮かぶ考え(雑念など)は、勝手ゆえに「その内容が果たして正しいのかどうか」といったチェックがしにくいものです。このため、たとえそれが見当外れの考えでも、そのまま自分に馴染んだ(自我親和的な)考えとなりがちなのです。おまけにこれが日常化すると見当外れの考えは、しだいに確信といえるほどにもなります。
 たとえば「自分は嫌われている」という考えや連想が勝手に頭に浮かぶ人は、「自分が嫌われている」ことを前提に物事を考えたり判断しがちになるのです。こうした悪循環を絶つためには「考えない」方法が有効だろうと推測したのでした。
 しかしながらその後、それは私の勘違いだったと思うようになりました。それというのも「考えない」方法を自分で編み出した二十歳の女性の話を聞いたからです。
 その女性は、暴言や極端な考え方を強制するDV家庭で育ったため、働ける年齢になると、直ちに家を出て仕事に就いたのですが、職場のストレスのため心身の不調をきたして受診しました。
 彼女は、物心がつくころから自在に「考えない」状態になれたそうです。その方法は部屋で布団にくるまり、身動きをしない姿勢をじっと維持するというものです。そうしていると体の感覚だけでなく、自分が存在しているという感覚すらも消失し、全く考えない状態になれたとのことで、嫌な出来事があった後は、何時間もこの状態のままでいたようです。
 私はその話を聞いて、これは禅の身心脱落とほとんど同じだと思いました。身心脱落とは長年坐禅に励んだ人が体験できる現象で、しっかりと足を組み、不動の姿勢を保ち、頭をよぎる雑念に捉らわれることがない状態を維持すると、はじめに自分の体の状態が分からなくなる感覚脱落になり、やがて身心脱落に至ることがあるそうで、この状態は小悟(本当の悟りが間近な段階)一つともされています。
 ところが彼女の場合、悟れなかったのはもちろんですが、「でも、そんなことをしても一時的に楽になるだけで、なんの解決にもならなかったです」とも語りました。私はその言葉を聞いて「確かにその通りだ。『考えない』という方法ができるようになっても、問題解決に直結するわけではない」と改めて思うに至ったというわけです。

④-3「他のことを考える」という方法

さて、ここまでなら「考えない」方法も気軽に試せるものではないし、また難点もある、という結論になりそうです。ところが実は、この方法はほとんどの人が日常的に行っているのです。それは「他のことを考える」方法です。
悩んでいると、友人から「くよくよしないで、今夜はパ~ッとやろうよ」と遊びに誘われた人もいるでしょう。悩みを軽くする方法として、飲食や雑談、動画観賞、ゲーム、スポーツなどの娯楽や趣味があります。頭を空っぽにする「考えない」方法と異なり、娯楽や趣味は「他のことを考える」ことで結果的に「考えない」を実現する方法です。それというのも、人は同時に複数のことを考えにくいので、趣味や娯楽に意識を向けている最中は悩み事を考え続けるのが難しくなるからです。
「他のことを考える」ことで「考えない」を実現するという方法は、娯楽や趣味でなくても構いません。ある五十歳の男性は、「女房とうまくいっていないのです。女房のことで頭を悩ますぐらいなら、仕事をして方がまだ楽なので、残業も自分から率先して引き受けています」と語っていました。好ましいかどうかを別にすれば、そんな方法でも一応可能でしょう。
 ちなみに坐禅や瞑想においても「他のことを考える」方法を利用して修行の難しさを和らげています。坐禅においては数息観という技法があります。これは坐禅中、自分の呼吸を数えるもので、そうすると考え(雑念)が浮かんできても、雑念に集中しにくくなるのです。
 ただし「他のことを考える」方法にも難点があります。一つにはある程度は、集中が必要だということです。悩みが深刻になると、テレビを見ようとしても、悩みが頭をよぎり意識をテレビに集中し続けることができなくなります。
 このため人によってはより没頭しやすい刺激の強い娯楽を求めてしまい、その結果ゲームやギャンブル、アルコール、買い物などの依存症につながることもあります。つまり「他のことを考える」方法として趣味や娯楽を選ぶときは集中できるものがよいのですが、その一方ではまり過ぎや依存に注意する必要があるということです。
 さらに、もっと大きな難点もあります。それは、「他のことを考える」によって「考えない」ができたとしても、それだけでは悩みを一時的に棚上げする効果しかないということです。
 つまり、「考えない」や「他のことを考える」を行った後に、悩みに対する捉え方が変化する必要があるのです。それがない限り問題から目を背けただけになってしまいます。「解決ができそうもない悩み事があります。ですから私は一生何かをやったり考えたりして、気を紛らわせて生活することにします」といった生き方にならないように気をつける必要があるでしょう。

⑤-1「考えても気にならない」という方法──マインドフルネス

「考えない」という方法には難点があるというのなら、「考えても気にならない」という方法はどうでしょうか。私は、悩みがいつまでも続く一番、大きな原因は「気がかり」になるからだと考えています。気がかりは悩みに必ず伴うもので、憤りや不快感といったさまざまな感情や感覚を含んだものです。ちなみに私が何度も話している「感じ」は「気にかかる感じ」と言い換えてもよいと考えています。
 悩んだとき、気がかりになるので考え始めるのですが、考えれば考えるほどすっきりしない感じ(気がかり)が余計に募り、そのため更に考えてしまうという悪循環に陥りやすいものです。
 ここで「考えても気にならない」を可能にする一つの方法として、日本でもちょっとした流行になっているマインドフルネス瞑想を紹介しましょう。マインドフルネスとは「今、この瞬間の現実に常に意識を向け、その現実をあるがままに知覚し、それに対する思考や感情には捉われないでいること」というもので、禅の思想にも通じるものです。  そしてマインドフルネス瞑想とは「考えや感情が心に浮かんでも、巻き込まれたり払いのけたりしないで、ただそれがあると認めたり、眺める瞑想」を指し、仏教修行の一つであるヴィパッサナー瞑想とほぼ同義とされています。


⑤-2 「考えても気にならない」という方法──フォーカシングとの比較

私が話している「感じ」で悩みを軽くする方法や、フォーカシングは、その一部はマインドフルネスと似ています。一番似ているのは「考え」も「気がかり」も積極的には排除しない点です。
ただし違いもあります。マインドフルネスは、気がかりに対して一定の距離を保つ状態を大事にします。一方、フォーカシングはむしろ「気がかり」に接近し、気がかりの意味を探るだけでなく、そうすることで結果的に気がかりを解消させることも意図します(これはややこしいので別の機会に説明します)。
 先程も述べましたが「気がかり」は、本人が意図しなくても出現する、その人のホンネを含んだ、感情と感覚が入り交じったものです。
 ホンネに従って生きることが、望ましいかどうかは別として、ホンネを認め「本当の私はそうしたがっているのだな」という態度を持つのが、自分を大事にする生き方だと私は考えています。そして「気がかり」や「感じ」は自分のホンネを知る手がかりになるので、これに注目し、活用しようと考えているのです。

○「感じ」を活用する方法──まとめ

悩みが苦しいのは「考え」のためではなく、「苦しい」とでも言いたくなるような「気になる感じ(感情や感覚)」を伴っているからです。したがって「感じ」をどうするかはとても重要になります。
 通常は考えと「感じ」はセットになっていて、考えている限り「感じ」がつきまといます。「考えない」を体験した人なら分かると思いますが、考えを停止すると「感じ」は少し後れて減り始め、考えの停止時間が長くなるにつれて「感じ」はさらに減ります。しかし「考えない」止めるといつのまにか「感じ」が戻る体験もするでしょう。
「他のことを考える」方法でもやはり「感じ」は変化します。たとえばサッカー観戦に夢中になっている間は、興奮などが心を占領し、悩みに伴う「感じ」はその間、無くなるか減ります。しかし、サッカー観戦が終わってしばらくすると「感じ」も戻ってしまいます。
「感じ」は考え以上に自分の意志では変えにくいものです。たとえば上司に罵声を浴びせられたとき、「上司は実はいい人で私のためを思って叱ってくれているのだ」と考えてみることも可能かもしれませんが、自分の中にある「感じ」がそうした考えの受け入れを拒否してしまうのです。
 なお、さきほど考え方は変えにくいと述べましたが、厳密にはそうではなく考え方を一時的に変えることに成功しても、「感じ」がなかなか変わらないので、せっかく変えた考え方が元に戻りやすい、と述べた方が適切だと思います。
 そう考えると、「感じ」はその人の考え方のみならず、生き方そのものに影響するほど重要なものだといえそうです。ですがその割には自分自身の「感じ」を意識する習慣がない人が多いし、また「感じ」が話題になることも稀なのが実情です。
「感じ」に注目し直接、焦点を当てる方法としてフォーカシングがあります。フォーカシングは感じに触れ、活用することで悩みが軽減するだけでなく、「自分は本当はどっちを選びたがっているのか」とか、「本当は何をしたいのか」という問いの答えが見つかることすらあり、こうした意味で悩みの根本的な解決法となる可能性も秘めていると考えます。
私が勧めている「感じ」の活用法はフォーカシングの簡略版ともいえるものです。また「感じ」は「心と体」のちょうど中間に位置する心身相関の要となるもので、私は感じ(身体感覚)を生かした方法は、悩みの解消法だけでなくさまざまな効用があると考えています。

○悩むことは有意義──終わりにかえて

昨今、若者を中心に「考えると気が滅入るから」などという理由で悩むこと自体を嫌がり避ける人も見かけます。しかし私は自分のためにも、ある程度は悩んだ方がよいと思っています。それというのも、たとえ些細な問題だとしても、悩みは自分の内部から自然発生的に生じた「気がかり」なことだからです。
 気がかりは生きる手がかりでもあります。気がかりの内容は、家族や友人、そして仕事やお金など、人それぞれ違いますが、その気がかりなことが自分の思うような方向に進まないと、それが悩みになります。したがって、悩みが続くときは、それは身体レベルの自分が、気がかりを通して、自分自身に「この問題は自分にとって重要なこと。だからこの状態をなんとかしてほしい」と訴えていると理解すべきでしょう。
 その一方で悩みが長引くと弊害も生まれます。ややもすると見落とされがちな弊害としては、「先延ばし」があります。悩み続けていると、当人としては「その問題については熟考中であって、決して放置しているわけではない」と思ってしまうのですが、悩むことで、決断や行動が先延ばしになってしまう場合もあるのです。残念ながら人は毎年歳を取り、命にも限りがあるのです。
 弊害は他にもあります。時間が費やされ、仕事や趣味の時間や、睡眠時間にも影響するなど、日常生活にしわ寄せが及びます。また「気が入らない」状態になり、仕事をしてもミスも増えたり、悩みには苦しいという感じも伴います。
 このように悩みが長引き、日常生活や心身への悪影響を及ぼすようなら、健全な形?で悩みを悩むことができなくなったと判断し、悩みを軽くする方法も検討した方がよいでしょう。
 その方法はすでに述べましたが、誤解を避けるために付け加えておくと、悩みの解決のために最も望ましいのはもちろん状況が好転することです。それが困難なときの次善の策として「考え方を変える」「考えない」「考えても気にならない」などもその候補になるということです。
 このどれを試してもよいし、もっと優れた他の方法もあると思いますが、できればその後も感じの変化が持続するような方法が望ましいでしょう。それというのも感じが変化すれば気になる程度だけでなく、考え方や行動にも影響を与え、悩みを軽くするだけでなく、回り回って悩み自身の解決にも繋がるる可能性があるからです。