エッセイ・心と体|埼玉県さいたま市大宮区 心療内科|心と体のクリニック

心と体のクリニック 大宮市

エッセイ・心と体

提案。ささいな事から始めよう

無気力やうつ状態になっている人からこんな話を良く耳にします。
「やることが見つからない」
「やることはあるけど、手をつける気力が出ない」
「やることが多過ぎて何からをつけたら良いかわからない」
こんなときはどうしたら良いのでしょうか。

 一般的に「やるべきことが多いとき、どうすれば良いか」という話になると、その解答としては「優先順位の高いものからやる」、つまり急ぐものや重要なものを優先して、それ以外は後回しにするのが良いとされているようです。

 これは仕事などにおいては正論だと思います。ただし、不安や焦燥、抑うつ気分、倦怠感などのため優先順位を考えることができない場合や、手をつける気力が出ない場合は、話がだいぶ違ってきます。

 そんなときは「今の自分でもできるささいな事から始める」のが正解だと私は考えています。それというのも、優先順位が高いものは、やり遂げるのが厄介で、気力や労力が必要なことが多いからです。

 「やることが多すぎて、途方にくれている」などと語る人でも、実際は「優先課題が何か」を漠然とは分かっているものです。しかし同時に、それに手をつけるのが大変なことも分かっていて、だからこそ途方にくれているのです。

 これに対して、ささいな事は気力や労力は少なく、手をつけやすいのですが、「ささいな事なんか、やったところで、大勢に影響を与えないのでやるだけ無駄」と思いこみがちです。しかし「なんとかやり遂げた」「一歩、前に進んだ」という感覚が生まれ、気持も変化します。気持が変化すれば「では別のことも~」という気持にも繋がります。

 ささいな事から始める方法をもう一歩進めたアイデアとして、「箇条書きにして一つずつ消去する」という方法があります。メモ帳などに、やるべきことを片っ端から書き出すのです。「転職をする」「家を買う」など大きいことから「ハガキをポストに入れる」「ペットに餌をやる」などささいな事まで、先ずは何でも書き出します。そして「ペットに餌をやる」が実行できたら、そのことが分かるように、その項目を斜線で消すのです。

 当然ですが、「転職をする」「家を買う」などの項目はなかなか斜線が引けないでしょう。しかし斜線の数が多くなると、不思議と気分が前向きになります。ぜひ試してみてください。

 なお、これは「お買い物メモ帳アプリKomorebi Inc.(iOS、Android、無料)」などのリスト機能付きアプリでも代用できます。

「クモ恐怖症」を自分で克服した人の話

小学一年生のときクモ恐怖症に

 「クモ恐怖症」を自分で克服したSさん(28歳)の話です。皆さんにも役立つと思うのでここで述べておきます。

 Sさんが小学1年生のとき、夏休みにおばあちゃんが暮す田舎に行き、近くの里山を散策していると、突然、首の辺りがもぞもぞしたそうです。「何だろう」と思い、首に手をやると奇妙な感覚の物体に触れ、おまけにその物体が下着の中に入り込み動き回ったためパニックになるという体験をしました。結局、その正体は大きなクモだったのですが、以来、クモがいそうな所に近寄るだけで恐怖を感じるようになりました。

恐怖症を脱するきっかけ

 こんな体験があったせいか大学卒業後はクモとは無関係のシステムエンジニアとして働き、休日は自宅で趣味を楽しむという生活をしていました。そんなある日、公園整備の仕事をしている親友から相談を持ちかけられました。

 その内容は「最近、外来種の毒グモが公園内で発生し、来園者に被害が出てしまった。そこで注意喚起のチラシを作ろうとしている。写真だけではアピールが弱いのでチラシにQRコードを付けてクモの動画が閲覧できるようにしたいので、手伝ってほしい」というものでした。

 親友がそんな依頼をしたのは、Sさんの趣味が、現実とバーチャルを融合させるAR(拡張現実)動画の作成なのを知っていたからです。しかしSさんにとってはクモが話題に登るだけでもイヤだったので、最初は断ったのですが「人助けと思ってやってほしい。動画編集だけでも構わないから」と懇願されしぶしぶ引き受けました。

 後日、親友から送られた撮影動画には、毒々しい赤斑が胴体にある暗黒色のクモが映っていて、見た瞬間、Sさんは恐怖で体が凍りそうになりました。しかし引き受けたという手前、勇気を出して見続けたところ、その動画には大きな問題点があることに気づきました。それはクモの動きが早く、一瞬で葉の陰に隠れてしまううえ、クモと地面の色調が近いため、クモの全体像をイメージしにい動画だったのです。

 「これでは取り直しするしかない」と思い、自分から親友を誘って公園に出向き、丸一日かけてクモを追いかけ回して撮影し、自宅に帰った後、いろんな角度からクモを観察できるように動画編集をしました。

 「やっと満足できるレベルの動画ができた」と、ほっと一息ついたとき、Sさんはクモに対する恐怖感がいつの間にか無くなっている自分に気づいたのでした。

恐怖症の治療法。暴露療法

 恐怖症の治療法の一つに暴露療法(フラッディング、エクスポージャー)というものがあります。これは一言でいえば恐怖場面に直接、遭遇することで恐怖を克服するという治療法です。

 クモに限らず何らかの刺激で不安や恐怖が生じた場合、どうしてもその刺激を避けがちになります。しかしそうした行為は、却って不安や恐怖が慢性化させたり、悪化させたりするものです。こんなときは、むしろ刺激に触れる方が治療になります。

 しかし治療になると言われても、不安や恐怖となる場面にあえて出向くのは誰でも嫌なものです。そこで負担が少しでも減る工夫をしながら試みます。それは以下に挙げる①~④の方法ですが、Sさんは意図せずにその方法を実践しているので、ここで解説します。

 

①モチベーション:恐怖場面に立ち向かうことに意義を感じたり、興味を持つ。

 Sさんの場合は、人助けになると親友に頼まれたことに加え、趣味のARを活かせる、というモチベーションがありました。

②段階的なアプローチ:いきなり恐怖場面に出向くのではなく、模型や写真など恐怖 の程度が低いものからアプローチする。

 最初は本物のクモではなく映像だけで接する機会が持てました。

③理解や観察:恐怖の対象を理性的に理解したり、客観的に観察する。

 よい動画にしたいと考えたので、結果的にクモを理性的かつ客観的に観察できた。

④安心や信頼:信頼できる人に支えられるなど、不安軽減の工夫。

 親友と同伴で現場に出向いたので不安が軽減できた。

 

つまりSさんは、意図せずに暴露療法を自分で試み、その結果「クモ恐怖症」が治ったというわけです。暴露療法は行動療法という治療法の一つで、恐怖症の他、対人恐怖(対人緊張)や不安症、PTSD、強迫症にも有効です。

私たちは何を目指すのか──ヒトと他の動物との違い

 先日「SWITCHインタビュー達人たち 山極壽一×関野吉晴」というNHK教育テレビを見た。これは今年8月15日に放映されたものの再放送だったようだ。

 山極壽一氏は京都大学総長でゴリラと会話できると言われている方で、関野吉晴氏は医師で人類の足跡を辿る探検家である。

 二人の対話の中で人間をチンバンジーやゴリラなど他の動物と異なる「人間たらしめるものは何か」という話が出た。山極氏は、それは通常言われている直立歩行とか火や言葉ではなく「複数の家族が集まり、食物を共に分けて食べること、共同保育を含む共同生活」だと説明していた。

 なるほどと感心したのだが「では私たちはどうなのだろうか」と振り返ってみると、山際氏の指摘が的外れにすら感じてしまった。確かに私たちヒトは複数の家族が集まって生活しているとはいえる。しかし近所との交流がない家も珍しくないし、ましてや共同で子供を保育しているという話は耳にしたことがないからだ。

 山際氏の指摘するような関係は、おそらくかつてはあっただろう。また私の子供時代にも「ご近所におすそ分け」する習慣があったり、短時間なら「近所の子供の面倒をみる」ことは珍しくなかった。

 時代と伴に山際氏の指摘する「他の動物と異なる人間たらしめる」要素がどんどん希薄になっている可能性がある。私はその現象の善し悪しは分からないし、「それも時代の流れ」だろうと思う。しかしその一方で「では私たちヒトはいったい何を目指すのだろうか」とも思う。

 私の単なる偏見かもしれないが、昔に比べると人々は孤独を感じることが多いように思う。関野氏はアマゾンの原住民の中で生活した体験が豊富な方だが,原住民は狩で大きな獲物が手に入ったとき、その場で食べないで、わざわざ持ち帰り、みんなに分けるという。そうすることで自分の分け前は確実に減るのだが、持ち帰った人には讃えられるという喜びがあり、分け与えられ人は、自分が仲間の一員として認められているという安心と喜びを感じることになる。こういう集団生活をしている限り、孤独を感じることはずいぶん少ないのではないだろうか。

 もし私が「アマゾンの原住民の暮しと今の私がしている暮しのどちらが良いか」と尋ねられたら,衣食住の便利さ快適さといった問題は別にしても「今の私の暮し」と答えるかもしれない。それというのも、集団生活には小さないさかいが絶えないだろうし,気兼ねなどの気苦労もあるだろうと思うからだ。

 しかし私たちヒトは複数家族からなる群れの中で何万年も生きたという歴然とした事実がある。したがって今の方がヒトの生活方法としては「異常(通常ではない)」であり、元々の生活をしていない私たちの生き方にはどこかに「歪み」が生じている可能性がある、と理解していた方がよいのだろう。また先程私はアマゾンの原住民の暮しは「気苦労がある」と述べたが、それは私の考え方自体がこの「歪み」の中で生じた発想ではあるのだろう。

私たちヒトはなぜ生き延びたのか?

「ネアンデルタール人と現代人(河合信和、文芸春秋)」を、感想を交えながらその概要を述べる。

・ヒトの祖先は500万年前

 ヒトの定義を直立歩行する動物と定義するなら、それは約500万年前に遡れるようだ。当時、ヒトの祖先は熱帯雨林気候の東アフリカのジャングルで樹上生活をしていた。果物などは豊富だったので食料確保には余り不自由しなかったと考えられる。ところが、約500万年前、気候変動で乾燥が始まりジャングルが狭まった。また大地溝帯が形成され地面が東西に分かれ、このとき東側にいたのがヒトへと進化し、西側いたのがチンパンジーになったとされている。ヒトとチンパンジーが共通祖先を持つことはヒトはチンパンジーはDNAは98.5パーセントの一致率があるほど近いことからも裏付けられている。

 私たちの私たちの直接の祖先ホモ・サピエンス(以下、現代人と述べる)は20年前のアフリカ女性に遡れるようだ。これはミトコンドリアのDNAは母親からしか受け継がないという特徴があり、これを利用した測定などから推測されている。

・ヒトは集団生活で生き延びた

 ところで500万年前から現在まで、17種以上のヒト科があったことが確認されているが、現在残っているは私たち現代人だけである。なぜ私たちだけが生き残ったのだろうか。

 樹上生活に比べて地上での生活は猛獣に襲われる危険が高い。ヒトは猛獣と戦うには非力であるうえ、特にヒトの子供は、他の動物に比べると保護が必要な期間が極端に長いため、大人が側にいて危険に備える必要がある。

 またこのころ、ヒトは動物の屍肉や、他の動物が食べ残した骨髄を主な食料としていたようだ。屍肉にせよ、自由に食べれるわけではなくハイエナなどを追い払う必要がある。ハイエナを追い払いながら、屍肉を自分たちの住居まで持ち帰るのは一人では無理であろうし、この間も女子供は猛獣に襲われなル危険がある。

 こうした理由から、一定の規模、おそらく50人~150人が集団で生活していたと思われる。つまりヒトは500年前から長期に渡って集団生活を基本にしてきたということになる。

・ネアンデルタール人との違い

 私たち現代人を除き、最近まで生きていたヒトがネアンデルタール人である。ネアンデルタール人は私たちより脳体積が大きい。また体も骨太で筋肉隆々としていて、もしオリンピックに参加させたら砲丸投げやレスリングなどの種目で金メダル間違いなしとされるほどである。もっとも私たちとの外見の違いは意外なほど小さく、「ネアンデルタール人に今風の服を着せてニューヨークの地下鉄に乗せても誰も気づかないだろう」と述べる研究者もいる。

 ネアンデルタール人は20万年前に生まれ、3万年前に滅びたとされる。この間、現代人と共存していた地域もあるようだ。ただ共存といっても競合的関係だっようだ。現代人との混血児もいたようだが、長く子孫を残した形跡はない。

・ネアンデルタール人が持たなかったもの

 私たち現代人が生き残り、ネアンデルタール人が滅んだ理由として何があるのだろうか。その一つには、ネアンデルタール人が持たなかったものがあるからのようだ。それは石刃技法、骨角器、芸術である。

 石器自体は250万年前からあったようだが、石刃技法がなかった。わたしたち現代人には石刃技法があったので、マンモスの牙やトナカイの骨を道具作りの素材として活用できた。またネアンデルタールは骨角器も作ったが器用なものではなかった。これに対して現代人は、骨製の針や槍先、ビーズなどを作成した。

 ネアンデルタール人は氷河期のヨーロッパにも居て、毛皮で寒さを凌いでいたようだ。しかし針がないと、機密性のある防寒具を作れなかったはずだ。

 さらにネアンデルタール人は社会的ネットワークの広がりがなかった。石器を分析すると80キロ以上離れた地域の物は稀だった。これに対して現代人のそれは数百キロに及ぶ。獲物が取れないときなどはネットワークの広がりの差は全滅につながったに違いない。

 どうもネアンデルタール人は言葉を持たなかったようだ。それは頭蓋底部の構造が言葉を使うのに適さないことや、石器文化の停滞ぶり、そして認知能力を表すとされる芸術の不在がそれを示唆する。言語能力が十分でないと、よい石材産地やよい猟場などの情報交換にハンデがあったはずだ。

 つまり、脳の大きさや体力では劣っていた現代人が生き残り、ネアンデルタール人が滅んだのは、物作りの器用さと言葉の有無の違い、ということになるのだろう。

「認知の歪み」は本当に「歪み」なのか

 「認知の歪み」という言葉がある。これは認知療法などで使われる言葉で、極端に合理性を欠く考え方(認知)を指す。たとえばその一つに「過度な一般化」という言葉がある。これはたった一回、女性に振られただけで「全ての女性は私を嫌っている」「私は一生、女性に縁がない」など、たまたま起こった出来事を、普遍的な出来事だとしてしまう考え方に対して付けられた言葉である。認知の歪みの例としては「過度な一般化」の他に「決めつけ」「全か無か」「破局的思考」などがある。

 認知療法が注目されるようになったのは、うつ病の治療に関してである。うつ病患者は認知の歪みがみられることが多く、これを指摘し修正することで、うつ病が良くなるという研究報告が出されたからである。

 「全か無か」や「過度な一般化」という考え方は一般常識からみても、たしかに極端で、片寄ったものである。ただ、ではこれらは病的な考え方で、健康人にはそれが絶対ないのかというと、そうでもないのだ。

 単語の暗記など、私たちが物事を覚えるときには、通常は徐々に記憶される。ところが猛獣に襲われるといった強い恐怖体験の場合は、たった一回で脳裏にしっかり刻み込まれ記憶されるように脳ができている。

 通常の記憶の場合、大脳辺縁系にある海馬で一時的に貯えられ、その後大脳で記憶される。しかし恐怖など原初的な情動に関連した記憶は海馬の隣にある扁桃体にしまわれる。このように通常の記憶と恐怖記憶では記憶のメカニズム自体が異なるのだ。

 なぜそんな仕組みになっているのかというと、たとえば猛獣に襲われ死にかけるような体験は、めったにあることではない。しかし次に同じような場面に遭遇するときには本当に死んでしまうかもしれない。だから通常の学習のように徐々に記憶していったのでは間に合わないので、たった一回の体験でもしっかり脳裏に記憶され、猛獣を見たら、すぐさま恐怖するように脳が作られているのだ。猛獣といっても、毎回襲ってくるとは限らないので「過度な一般化」ともいえる思考だが、その方が生き延びれる確率が高くなると思われる。

 こうしたことからの類推であるが、うつ状態のときに悲観的で極端な思考を持ってしまうというのも、むしろその方が人類の長い歴史の中では生存の確立を高める思考方法だったのかもしれない。

「恋のときめき」と「恐怖の動悸」は区別がつかない?

 ダットンとアロン(1974)による吊り橋実験というものがあります。実験のために18~35歳の独身男性が集められ、渓谷に架かる揺れる吊り橋と、揺れないしっかりした橋の2ヶ所で行われた。橋を渡るように指示された男性たちは、橋の中央で魅力的な若い女性(実はサクラ)にアンケートを求めて話しかけられる。そしてアンケートの後で「結果などに関心があるなら後日電話を下さい」と電話番号を告げられる。その結果、吊り橋の場合は18人中9人の男性がこの女性に電話をかけたのに対し、揺れない橋の場合は16人中2人だけだったというものです。

 ダットンらはこの結果から、人は生理的に興奮することで、自分が恋愛していると認識するのだとした。要するに魅力的な女性と遭遇する「恋のときめき」と、高い吊り橋を歩く「恐怖の動悸」は区別がつかないという結論です。

 この説に対して「人間はそんなにバカじゃあない」と感じる人も多いと思われますが、この主張を支持する報告は他にもあります。

 たとえばシャクターのアドレナリン実験(1962)です。これは興奮性の薬理作用を持つアドレナリンを実験のために集められた人たちに投与した。(比較のための統制群の被検者には生理食塩水を投与)。

 アドレナリンを投与された人は、薬の作用に関する正しい情報を与えられたA群と何も情報を与えられなかったB群、間違った情報を与えられたC群の3のグループに分けられました。これに統制群であるD群(生理食塩水投与。薬の情報はない)が加わります。

 アドレナリン又は生理食塩水を投与した後に、部屋にサクラを入れて被検者を怒らせるなど、被験者を興奮させるような言動を取らせたところ、薬の正しい情報を与えられたA群では情動(感情)の変化はあまりなかったのに対し、情報が無かったB群と間違った情報のC群では強い情動変化が見られました。

 この実験が意味することは、薬のせいで生理的興奮が生じると知っていたA群の人たちは、興奮の原因が自分の感情のせいだとは思わなかったのに対して、薬の作用を知らなかったB群やC群では、生理的興奮をサクラに対する怒りだと思いがちになったということです。

 これは動悸など、身体の変化が生じたとき、私たちはその原因を勘違いすることがあるということも意味します。

 実はこんな現象はわざわざ実験結果などを示さなくても、私たちの日常生活を振り変えることで実感できます。たとえば上司の暴言など、職場でイヤなことがあったとします。こんなときは当然、家に帰った後でも興奮やイヤな感じが残るものです。そして、たとえ上司のことを考えていなくても家族の人のちょっとした言動についイライラしたり、声を荒らげたという体験の持ち主は珍しくないでしょう。また生理前になるとご主人と口論になりやすいと感じている女性も少なくないはずです。

 私たち人間は理性的な生き物だされていますが、実は自分の身体の状態が、そのときの気分や言動に大きく影響するものなのです。

脳科学の本、私たちに役立つの?

 最近、脳科学の本を何冊か読みました。テーマは心脳問題、意識、クオリアなど心に関する本です。それなりに面白いと思ったのですが、では「専門家ではない人が読んでも役立つの?」と質問されたら、まだ「よく分からない」という返事しかできません。

 書店には脳科学と称する本が並び、ベストセラーもあるようです。なかでも人気があるのは、人間の行動や考えを脳から説明しようとするものです。しかし「心脳問題(山本貴光、吉川浩満、朝日出版社)」の著者は「多くは一種のトリックによって仕上げられている」とし、その手口は「だから」は「じつは」というキーワードを使う方法だとします。

1.脳の働きが○○なの。だからあなたの行動や感情や思考は××になる。
2.あなたの××という行動や感情や思考は、じつは脳の○○という働きにすぎない。

  詳細は略しますが、この1や2の方法によって単なる言葉のすり替えや、問題の所在のゴマ化しているだけだという指摘です。

 確かにこれでは「なんとなくわかったような気にさせるだけ」でしかありません。 また意識など心に関する分野に限定すれば、専門的な本を読んでも脳に関する知識が増したり、脳科学が目指す問題点が明確になったりはしますが、事情はさほど変わらないようです。

 しかし、だからといって「役に立たない」とも言えないように思うのです。たとえば私たちは主体的に考えたり行動していると思いがちなのですが、実体は意識にのぼらないもの(無意識)の役割がことほか大きいようです。したがってそのメカニズムを理解したり、自分の考えや行動がどんな形で歪み易いのかを理解するだけでも、役立ちそうです。さらに脳科学は急速に発展している領域なので、将来は私たちの生きる指針を示唆してくれる可能性すらあると思います。

私たちが見ているのはバーチャル世界

 脳の仕組みの解説を読むと、私たちが生涯実像を見ることがないという事実に改めて気づかされる。たとえば目の前にあるミカンである。私たちは本物のミカンを見ていると思っているが、それはただの勘違いのようだ。それというのも私たちはミカンの像を頭蓋骨の内側から眼球を通してそのまま見ているのではないからだ。ミカンの像は脳内で形や大きさ、色などに細かく分解され、もう一度組立てられる。私たちが見ているのはこの再構成されたミカンの像である。

 そう言うとこんな反論がでるかもしれない。再構成されているといっても実物と同じように見えているなら何も問題はないのではないか。たとえば私たちが見ているミカンの像と、カメラで撮ったミカンの写真はほとんど同じだ。これは脳内で再構成された像も実物もさほど変わらないという証明ではないか、と。

 実はこんな発想自体が勘違いなのだ。これは他の動物との比較で考えるとわかりやすい。たとえば鳥の視力は人間の6倍といわれ、人間には見えない紫外線も感知する。通常の写真は人間の目には見えない紫外線をカットしているので、もし人間の言葉を喋れる鳥がいてミカンの写真を見たとすれば「実物とは色ぐあいが全く違う」と主張するに違いないし、立体視や物の構成の仕方など色以外の違いも指摘するかもしれない。

 また犬と散歩するとなんとなく、犬と同じ空間で同じ体験を共有しているように思うが犬の視神経の数は人間の二割以下で、解像力は相当悪く、おまけに近眼でカラーの識別も苦手なようだ。したがって人間と犬では体験する世界はよほど違っているのだろう。このようにどの種も実物を参考にした、それぞれ異なるバーチャル空間を見ていることになる。

 ただし科学が発達するより遙かに昔から「実物と見える物が異なるという現象がある」ということは知られている。たとえば地平線にある月は大きく見え、空高くのぼるにつれて小さくなるように見える。これは錯覚(錯視)の一つであるが、この現象は古代ギリシャの哲学者、アリストテレスも研究したようだ。

 月の場合にも言えるが、たとえば同じ長さの二本の線が違って見えるという錯視の図を示された後、「それは錯視で、この二本の線は本当は長さが同じなんです」と指摘された後でもやはり長さが違って見える。つまりこれらは環境や教育とは無関係に脳に備わった仕組みで、いわば人間にとって逃れることができない宿命的なものといえる。

 現代人と同じ知能や身体構造を持つ新人(ホモ・サピエンス)が出現したのはおよそ30~20万年前とされている。進化論的な視点に立つと、私たちホモ・サピエンスがここまで生き残れたということは錯視を含めた今の「見え方」が生存のために極端 に不利にはならなかったと考えてよいのだろう。

 したがって錯覚を含めた人間の「見え方」は欠点というより特徴と表現する方がよさそうだ。さきほど人間は実物と写真が同じに見えてしまうが、種が違う鳥ならすぐ二つの違いが分かってしまうだろうと述べた。このためこの特徴が悪用されることもありうる。たとえば魚釣りのために作られた擬似餌(ぎじえ)というものがある。これは魚がふだんエサにしている昆虫などに似せて、木やプラスチックで作ったものであるが、「魚はこんなものをエサと勘違いするのか」と驚くほど極端にデフォルメされたものでも魚の目には本物と映るようだ。

 もし人間以外でずるがしこい生き物がいれば、人間にとって擬似餌になるようなものを発見するのは意外と簡単かもしれない。

「やることがない」悩み。どうしたらいいのか

発達障害児と退職後「 やることがない」と悩む男性

 ある女性が「自分の息子(4歳)が発達障害(ASD)だと診断された」と言う。子供について、彼女が以前から気になっていたのは「遊べない」ことだったようだ。子供を声かけをしないで一人にしていると、ただうろうろするだけ。彼女に近寄って来ないし、一人で遊ぶこともしないようだ。

 本来、子供は「遊び」の天才だと思う。何も無いところから、楽しみを見つける。大人からすればただのゴミでも、それを何かに見立てて遊ぶし、全く何もなくても何かを想像しいるのか、声を出し飛び跳ねる。そして人を見れば近づき、一緒に遊ぼうとする・・・。彼女の子供はこうしたことができないようだ。

 私は子供の発達障害を診た経験はほとんどないが、この話しを聞いて、つい最近会った「やることが無い」と悩んでいる62歳の男性を思い出してしまった。

 その男性は三カ月前に一流会社を退職して今は何もしていないという。そんな生活が辛くてしかたがないようで、その理由を自分なりに説明してくれた。

 それはたとえば「現役中は仕事ばかりで趣味を持つゆとりがなかった」「付き合いは会社関係の人達ばかりだったので、退職後は気楽に会える友だちがいない」「今は働いていないので自由にできるお金が少ない」「何かしようと探してはいるが、打ち込めそうなものが見つからない」といったものだった。そして「朝起きても、ただ部屋の中をうろうろするだけで・・・」と先程の発達障害児と同じような話をしていた。

「やることがない」悩み。どうしたらいいのか?

この男性は、子供時代には自分で「遊び」を見つけていのに、今ではそれができなくなって、悩んでいるのだろうか。それとも元々遊びが苦手だったのだろうか。残念ながらそのあたりを聞きそびれた。

いずれにしても本人にとって、この悩み解決は糸口さえ見つからない難問のようだ。

もっとも、普通の子供なら簡単に解決法を見つける。それは少しでも気持が向きそうなこと見つけて先ずはやってみる。たとえそこに意義や価値が見いだせなくても気にしない。そしてやっているうちに、もっと面白な事があれば、今度はそちらに気持を移す・・・。

 この男性にできるかどうかはわからないが、少なくとも子供はそうしている。大人はつい「価値」「意義」そして「世間体」「常識」などを気にしてしまい、容易なはずの問題を自分で難問にしてしまっている。

 もっともそういう私も、子供時代ならできたことが、今となってはできなかったり、仮にできても勇気を振り絞る必要があったりする点でこの男性と大差ないのだ実情である。

 

注)なお小児の発達障害に詳しい知人の話では「一人にしていると、ただうろうろするだけ。彼女に近寄って来ないし、一人で遊ぶこともしない」と例は少なくとも発達障害(ASD)の典型例とはいえないようだ。

 

発達障害の分類法にはいくつかあるが、概略は以下のよう。
A広汎性発達障害 (PDD、pervasive developmental disorders)
これはほぼ自閉症スペクトラム(ASD, Autism Spectrum Disorder)と同義
自閉症は社会性や対人関係の障害、言葉の発達の遅れ、行動や興味の偏りがあるものを指し、このうち知的障害がないものがアスペルガー症候群

B学習障害(LD、Learning Disability)
読字障害(「読み」の障害)、書字表出障害(「書き」の障害)、算数障害(算数 や推論の障害)

C注意欠陥、多動性障害 (ADHD、attention deficit hyperactivity disorder)

「退屈」の悩み。「退屈」から「気晴らし」へ

退屈という悩み

 「退屈」で悩んでいる人がいる。その人達で一番多いのは多いのは定年後の人、特に男性である。仕事中心の生活を過ごしてきたため、これという趣味がないという共通点がある。ただし趣味ややりたいことが全くない、というわけではない。退職した当初は夢だった「ゴルフ三昧」の生活や、「いつかは」と願っていた旅行に出かけたりするのだが、3カ月も経つとやり尽くした感じになるようで、「ゴルフなんて、たまにやるから楽しいのですよ」などと言う。

 こうした人以外で「退屈」で悩むのは、不登校や退職などで引きこもりぎみになった人、そしてプチ退屈とでもいえる、仕事がない土日は時間を持て余すと言う人である。

人は退屈しないようにできている

 ところで人はなぜ退屈するのだろうか。小さな子供には退屈というものが無いようで、常に何かしらのことを自分で見つけてやっている。おそらく退屈を感じる前に、あるいは感じると同時に何らかの行動を取ってしまうのだろう。

 動物は「動く物」と書くが、私はヒトも動くようにできていいるのだと考えている。そして退屈だという感覚は、動きたがっているという自分自身へのメッセージやサインであり、したがって退屈だと感じると特別、意図しなくても速やかに何らかの行動を取ってしまうのが正常な状態だと考えている。

 もっとも与えられた環境によって行動の中身や程度は違ってくる。たとえば長い間、刺激が少ない毎日が続くと、最初は退屈と感じていたはずなのに、いつのまにか単調な生活に慣れて、いつの間にか動く頻度が減ったり動きが緩慢になる。

 また個人差もある。いつも何かをやっていないと落ち着かない人や、動きの少ないまったりした生活でもそれなりに満足する人など、まちまちである。

長い間、退屈だと悩むということは・・・

 いずれにしても人は退屈を避けて何らかの行動をするようにできている。したがって長い間、退屈だと悩む人の場合、本来あってはならない現象が起きていることになる。

 では、なぜそんなことになるのか。ここからは私の推測であるが、退屈だと悩む人は、自分が勝手に思い描いた「あるべき姿」があって、そのあるべき姿に沿った退屈解消法が見つからないからではないか。とくに年齢を重ねるにつれて、「あるべき姿」が固定化されやすい。

 たとえば、ある50代の男性は「今は時間はあるけど、なにしろお金がないのです。お金が無いと遊ぶったって、なかなかないです。まさか、子供じゃああるまいし、今園でブランコというわけにもいかないでしょう」と自嘲気味に語った。

 また60代の男性は「家内は『そんなに暇を持て余しているなら、仕事でもしたら』と言うのですけど、この年齢になるとなかなか適当なものがないのです。大勢の部下を指図してきた私が清掃や駐輪場の整理というわけにもいかないのです」と語った。

 この人たちにとっては暇つぶしの「あるべき姿」があって、そこからかけ離れているので気持が乗らないであろう。

退屈の悩みから抜け出すには

 ではどうすれば良いかというと、「あるべき姿」をいったん脇に置くことだろう。つまり、どんなくだらないと思えることでもよいから、先ずは退屈しのぎと割り切って行動してみることである。それだけでは「退屈ではなくなっても、物足りないという気持に変化するだけだ」と言われそうであるが、それでいいのだ。とにかく「退屈だ、何か刺激がほしい」という自分自身の感覚に応じた行動が取れたわけなので、それ自体でも十分意義がある。

 小さな子供の行動を見ているとわかるが、子供はつまらないとか物足りない、と感じると、ただちに別の動きを試みる。これと同じように、今度は「物足りない」という感覚を尊重することで、次のテーマである「どうやったらこの物足りなさから抜け出せるか」に対応する行動が誘発され易くなるのだ。

気晴らしの弊害はないのか

 では「この方法に弊害はないのか」と言われると、座念ながら実はあるのだ。それは嗜癖(依存)という罠である。「退屈なのでつい始めてしまったら、いつの間にか止められなくなった」という話は、嗜癖に関連するとされている病気、つまりギャンブル依存症やアルコール依存症、買物依存症、ネット依存症、そして一部の摂食障害でよく耳にする。

 こうした依存症の特徴として、充実感の欠如というものがある。つまりいくらやっても満たされないのだ。先程の話でいえば依存症になることで「退屈」ではなくなったが、代わりに「物足りない(充実感がない)」状態から抜けだせないのだ。

 ところで依存症というとすぐ、「依存を止める」ことに関心が向かい、「直ちに、ギャンブルやアルコール、買物、過食を止めるべきだ依存を止めるべきだ」という意見を述べる人が少なくない。

 依存症はお金や健康問題とも直結するので、止めることは確かに大切ではある。しかし「止める」だけではまた「退屈」の悩みに戻るだけになりかねない。

 それよりも、充実感をもたらす「物足りなさから抜け出す」ことに繋がる試みが始まることが望ましい。それは決して容易ではないが、依存症の目標は止めることではない、という点は心に留めておいてもらいたい。

注目される「腸内フローラ」(1)肥満、老化、糖尿病、がん

 最近、「腸内フローラ」が注目されています。腸内フローラとはお腹にある腸内細菌のことでその数は100兆個以上あります。腸内フローラには個性のようなものがあり、腸内細菌の内容や割合は人それぞれ異なっていて、一生あまり変化しないとされています。

 ではどんなふうに注目されているのでしょうか。先日(11月)もNHKで「腸内フローラ解明!驚異の細菌パワー」という番組が放映(再放送)されたので、まずその概要を紹介しましょう。

・その1:肥満と腸内フローラが関係

 肥満の人の腸内細菌をマウスに移植するという実験をしたところ、そのマウスはどんどん太ってしまった。肥満の人の腸内にはバクテロイデスなどの菌が少なく、それが肥満の原因になる。

・その2: 腸内フローラは老化に影響
腸内細菌は大豆をエクオールという物質に変えるそうですが、実験でこのエクオールを飲んだ人はシワが浅くなった。このことから、エクオールは肌のハリを保つコラーゲンを増やしたと考えられた。

・その3: 腸内フローラは糖尿病の治療にもなる

 実験により短鎖脂肪酸を作る菌を増やす薬を飲んだ人は、食後にインスリンの分泌量が増えることが証明された。このため腸内フローラを変えることが糖尿病治療につながる可能性がある。

・その4:腸内細菌はガンとも関係

 腸内細菌からガンを引き起こす「アリアケ菌」が見つかった。アリアケ菌かから出るDCAという物質は細胞を老化させ、がんの原因になる。またナッツ菌という腸内細菌は前立腺がんを予防する働きがある。

 

 驚きですね。ではこのNHK「腸内フローラ解明!驚異の細菌パワー」の番組内容はどの程度信頼できるものでしょうか? 残念なことに専門家の間では余り評判がよくないようです。たとえば肥満の話はあくまでマウスでの話のようです。また老化の話で出てきたエクオールは、大豆を毎日30g(100g)以上食べる量での実験のようで、現実的ではないようです。

 腸内フローラは私たちの常識を覆すほどのパワーを秘めているという考えには私も賛成です。ただ肥満や老化、病気治療に関しての研究はまだ始まったばかりというのが現状ではないでしょうか。

注目される「腸内フローラ」(2)性格も腸内細菌が影響?

 NHKの放映内容はこれだけでも十分センセーショナルな話ですが、まだ続きがあります。それは「性格にまで腸内細菌が影響している」という話です。

 番組では、新しい環境においても積極的に動き回る「活発マウス」と、しり込みしてなかなか動き出さない「臆病マウス」を比較した実験を紹介しています。

 どんな実験をやったかというと、腸内フローラ(便)をお互いに交換したのです。つまり活発マウスの便を臆病マウスに、臆病マウスの便を活発マウスにそれぞれ移植したのです。すると性格が互いに逆転してしまったのです。

 NHKが取り上げた実験の他にも類似の研究があるので、こうした可能性はありそうです。では人間はどうなのでしょうか。最近、次のような研究報告がありました。

 40人の健康な女性の便を採取し、腸内細菌の組成から2つのグループに分類して比較。一つはバクテロイデス(Bacteroides)という細菌が豊富なグループ(33人)、もう一つはプロボテラ(Prevotella)が豊富なグループ(7人)です。

 この二つのグループに脳のfMRI(MRIを利用した血流動態を調べる検査)などで、感情を誘発するような写真を見せたときの脳反応を調べた。その結果、バクテロイデス豊富グループの方が(複雑な情報を処理する役割をしている)脳の前頭皮質や島皮質における灰白質部分が厚くなっていることが分かりました。また、ネガティブな写真を見せる実験では、プロボテラ豊富グループの方が、より不安や苦痛、過激のレベルが高くなるという結果になった、という研究報告です。

 要するに、腸内細菌の違いによって、脳の特定部分の大きさが違ったり、感情を誘発する写真を見せたときの反応が違った、という報告です。

 たった33人と7人の比較ということもあり、人間において「腸内細菌が違うと感情や性格といった『心』も違う」と結論付けるのはまだ早いでしょう。この報告をした研究者も「これらのことから腸内の微生物が人間の脳の構成になんらかの影響があることが推測できる」と婉曲な表現で結論付けています。

 

参考文献 Science Alert:JUL 2017
http://www.sciencealert.com/new-findings-suggest-human-emotions-really-are-affected-by-gut-bacteria/
Psychosomatic Medicine: 2017(79)p905–913

 

ちなみに腸内フローラは3つのタイプに分けらます。

TYPE1:バクテロイデス属が多い1型

 バクテロイデス属は日和見菌と言われ、腸の環境次第で善玉菌にも悪玉菌にもなる菌。良い面としては短鎖脂肪酸を生成し、肥満を防止する作用があるとされている。

TYPE2:プレボテラ属が多い2型

 プレボテラ属は食物繊維の分解酵素が強く、でんぷんや食物繊維を多く食べる習慣のある東南アジア人に多いタイプ。プレボテラ属は心血管疾患の発症リスク値を上昇させる作用があるとされています。

TYPE3:ルミノコッカス属が多い3型

 スウェーデン人の8割以上がこのタイプ。肥満の人の腸内フローラにはルミノコッカス属が増加し、バクテロイデス属が減少している。

PTSD治療に光明

 先日、PTSD治療にも繋がりそうなニュースがありました。 国際電気通信基礎技術研究所などのグループによる研究成果ですがその概要は以下のようです。

 数年前から人工知能技術の進歩により、例えばヘビ恐怖症の人が無意識にヘビを思い浮かべているときに、それを言い当てられるようになりました。

 一方、ヘビなどの恐怖対象を繰り返し見せたりイメージさせると、恐怖記憶が軽減することは従来から知られています。そこでこれを利用してヘビ恐怖症の人がヘビをイメージしたのが判明する度に、その人に報酬を与えてヘビ恐怖を軽減させるという研究も行われました。

 しかしこれだけでは、ヘビをイメージできたかどうかの判定が正確になったこと以外は従来の研究の延長です。この方法の欠点は、ヘビ恐怖症の人にヘビを思い出させるという苦痛を強いることでした。

 今回はこの改良版です。具体的には、本人に苦痛を与えるという問題の解決として、他の人の脳活動からヘビをを思い浮かべたときの脳活動を推測し、それに近い脳活動になったとき、円の図形画像で本人にも分かるようにした装置を開発しました。その上で、ヘビ恐怖症の人に「円の図形が大きくなったらお金を渡します」という約束をして、ヘビ恐怖の人に練習させると、本人がヘビを思い出すことなく、恐怖が軽減したという研究報告です。

 つまり当人も気づかないうちに、ヘビ恐怖が治ってしまうという話です。これはPTSD治療にも繋がりそうな研究といえそうです。ただ、実用化にはまだしばらくかかりそうです。

 

出典 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO27766540W8A300C1000000/